月と金髪
それはゾロにとって速やかに対処すべき問題だった。
海軍の奇襲攻撃や天災による差し迫った問題が船に起こらない限り、ゾロの一日は決まったペースで過ぎてゆく。朝起きて朝食を食べて、軽く体を動かした後甲板に横になって眠る。昼食の時間になるとまた起きて今度は少し重めのトレーニングメニューをこなした後食事をする。そして本格的な鍛錬を行い、夕食の時間まで泥のように眠る。食べることとトレーニングをすること以外、日中のほとんどの時間を睡眠に費やしている。反対に夜のゾロの眠りは浅い。肉食動物が夜の闇に紛れて、獲物を捕食するための牙を研ぐように刀の手入れをしたり、見張り台に登って闇に潜む敵の存在に目を凝らしたりしながら、浅い眠りを断続的に繰り返す。
船に乗る前も剣の鍛錬を中心に生活をしていたゾロにとって、生活の場が海の上になったということ以外何も変わることはないはずだった。
今日も彼は昼食の時間まで甲板に寝転がって本格的な昼寝に興じるつもりでいた。
波は凪いでいるのか、体に感じる揺れは僅かなもので眠気を誘うには丁度よい。太陽は真上にあり強すぎない光で海を行く小さな船を照らしている。遠くで鳴く海鳥の声は子守唄のようにゾロの耳に届く。
次第に重くなる瞼を閉じて至福の眠りに落ちようとしたゾロの上で、突然大きな物音がした。
「ナミさーん!今日の昼食なんだけど、パスタとオムライスどっちがいいかなぁ!?」
けたたましい音はこの船に乗り込んだコックがキッチンのドアを開ける音。そしてコックはゾロの眠気を容赦なく奪い去るようなトーンで、上部甲板に開いたパラソルの下で読書中の航海士に向かって声をかけた。
「そうねぇ。オムライスが食べたい気分だわ。玉子は半熟で上にデミグラスソースをかけた本格的なやつ」
ナミはすこぶるご機嫌にコックの質問に答える。
「はいはい、かしこまりました!新鮮な卵を仕入れたばかりなんで作って差し上げますよ。ナミさんのためにスペシャルオムライスを。玉子は蕩けそうな半熟で。いや、僕の心もあなたへの愛で蕩けそうです、マイハニー」
「あら、そう。それとシーザーサラダが食べたいわ。カリカリベーコンの入ったやつ。レタスはしゃきしゃきじゃなきゃいや。できるわよね?」
「もちろんですとも、マイダーリン。恋のランチはこのラブコックにお任せを」
「楽しみにしてるわね」
ナミの要求に最大限に答えるのが生きがいのコックにとって、我侭な注文は喜び以外の何物でもないようだ。ゾロは彼の思考回路では全く理解できない会話の応酬に軽く舌打ちをしながら、意地でも眠ってやるつもりで寝返りをうった。
「おい、それと野郎ども。お前らが食いてぇのはどうせ肉だろ。胸焼けするほどたっぷり用意してやるから全部食えよ!」
ガンガンと手に持った鉄製の鍋を打ち鳴らしてサンジは先刻と打って変わったガラの悪い口調で叫ぶ。ゾロにしてみればどっちにしろ煩くて昼寝どころではない。
「サンジ~!俺腹減って死にそうだ。つうか死ぬ!何か食わせてくれ」
見張り台に続く梯子から海を見下ろしていた船長が悲痛な声で訴えるのが聞こえる。
「てめぇ、さっき朝食たらふく食ったところだろ。わかったよ。なんかつまめるもん持ってきてやるからちょっと待ってろ」
コックは再び大きな音をたててキッチンの扉を閉めた。
静寂を取り戻した甲板の上で、ゾロは諦めたように上半身を起こした。すぐ近くで発明品をいじっていたウソップに「何だ、起きてたのかよ」と驚かれるが答える気もしない。
これがゾロをここ数日悩ませている原因だった。
昼寝ができない。その理由はおそらくあのコックにある。
煩い、ということが原因ではなさそうだ。普通のゾロならどんなに喧しかろうが身に危険が迫らない限り眠れないということはない。ただあのコックがナミに馬鹿みたいに歯の浮くような台詞を並べたり、ルフィやウソップと大声で笑いながらじゃれあっているのを聞くとどうにもいらいらが募り、昼寝に集中することができない。
「おい、ウソップ」
「ん?何だ」
「眠れねぇときはどうしたらいい?」
ウソップは作業の手を止め、ぎょっとしたようにゾロを見る。
「眠れねぇってお前、それ自分のこと言ってんのか?」
「ああ、他に誰がいる。軽い不眠症ってやつだ」
そう言って頭をがしがしと掻いたゾロにウソップは目を丸くして驚愕の表情を見せると、手に持った発明品を放り出した。
「ゾロが狂ったぞ!傷が深すぎて戦いすぎて寝すぎて狂った~!」
叫んで立ち上がったウソップの頭に、読書を邪魔され怒ったナミが飛ばしたサンダルが乾いた音をたてて直撃した。
物心ついた時からゾロは毎日のように剣術の稽古と鍛錬だけを積んできた。ただ強くなるために。誰にも負けない剣術と強靭な肉体を手に入れるために。
そして世界一を極めるという信念は、親友を亡くした日からより強固なものとなった。
道を極めるためには敵に勝つよりまず自分に勝たなくてはいけない、とゾロに剣を教えてくれた人は言った。禁欲的であること。自分の行く先だけを真っ直ぐ曇りのない目で見つめ、ただ前進すること。二兎は追わない。決して振り返らない。自分と自分が信じるものにだけ忠誠を誓い、何も畏れない。
それがゾロの生き方だった。そうしなければ生きている気がしなかった。
ルフィと出会い、この船に乗ることになってからも基本的にそれは変わっていない。新しい仲間たちの個性は強烈でゾロを驚かせるには充分だったが、彼の基盤が揺らぐことはなかった。これからもないだろう。
そしてたった一人で長い道を歩んできた彼は、アーロンパークの戦いのなかで仲間のために闘うことを覚えた。それも案外悪いもんじゃない、というのがゾロの正直な気持ちだった。
しかしこの船のコックは、何故かゾロの揺るぎない基盤に波風を立てる存在だった。
始めはとにかく何もかもが気に入らなかった。
ちゃらちゃらした容姿も軽薄な態度も嫌味なスーツも、絶対近づきたくないタイプの男だと思った。
女とみれば鼻の下を伸ばし、ナミのような魔女にも嬉々として甲斐甲斐しく世話を焼いている。かといってナミを始めとする女たちに好かれたり可愛がられたりしたいわけではないらしい。ただ尽くすということに喜びを見出している。理解できない。
病的な女好き、ということは差し引いて考えても彼は他人に尽くし喜ばせることが何よりも好きらしい。コックという性分がそうさせるのだろう。飢えた者のために最高の材料と方法で極上の料理を用意する。彼の料理を平らげる仲間たちを見守るサンジの瞳はいつも優しい。
そのことが判ってから、ゾロはサンジへの見方を少し変えた。