月と金髪
食事を単なる栄養摂取の手段としか考えていなかったゾロにとって、彩りや香りや隠し味や様々なサービスに満ち溢れているサンジの料理は新鮮だった。食べ方や味わい方まで文句をつけられるのは気に入らないが、時間をかけ一見無駄に見える技巧を凝らした料理を楽しむというのは人生の余暇を楽しむことに似ているのかもしれない、と何となく理解するようになった。シンプルな生き方しかしてこなかったゾロにとってそれは新しい発見だった。
加えて、毎晩酒を片手にサンジが用意してくれる酒の肴をつまむことが、実はゾロにとってとても楽しみな習慣になっていた。一人静かに晩酌しているところに、絶妙なタイミングで凝った味付けの炒め物やら上品な具の乗ったお茶漬けやらを出されれば、餌付けされたとしても仕方ないと言うものだろう。
しかしコックという彼の属性から零れ落ちる危うさを、ゾロはサンジのなかに感じることがあった。
例えばアーロンパークでの戦いで、サンジが自分の身を省みず海に飛び込んだときのことだ。
戦いが終わり、傷だらけのサンジが朦朧とした表情で治療を受けているのを見たとき、ゾロは彼の自己犠牲的な行動をとても奇妙に思った。動物は危険が及んだ時、本能的に自己を防衛しようとする。たとえ仲間を助けるときでも自らを傷つけたり死に至らしめる方法をわざと選んだりはしない。
ゾロにはアーロンパークでのサンジが、まるで本能の壊れてしまった動物のように見えた。自分自身の命の代価となるものなどないと、当たり前の前提をサンジは持っていない。それどころかサンジは自分自身を壊してしまいたいとさえ思っているのではないか、とゾロは感じた。
そのことを直感で悟ったゾロはあまりサンジには近寄らないほうがいい、としごく賢明な判断を下した。理解できないものには近づかないに限る。
しかしサンジは同じ船に乗っているという物理的意味だけでなく、ゾロのテリトリーを容赦なく犯してくる厄介な存在だった。ゾロの昼寝を邪魔し、彼のトレーニングへの集中を妨げ、最もゾロが勘に触る言い方で喧嘩をふっかけてくる。最近は彼の存在を意識からシャットアウトすることが困難になり、鬱屈とした感情が腹の底に溜まっていくのを感じていた。
自分の修行が足りないと言われればそれまでだ。しかし一度自分のなかに生まれた違和感もサンジという存在も、船底に溜まる水のように捨ててしまうわけにはいかない。そうするには彼の存在はゾロの中に根付き過ぎていたし、仲間は彼と彼の作る料理を心底好いている。計算外のことも運命と受け入れるは容易いが、コック一人に運命論など持ち出したくもない。要するに昼寝ができればいい。
ゾロは訪れない眠気に焦れて空を振り仰ぐ。太陽を包むように白い雲がゆっくりと流れていた。
昼寝がままならないと夜も眠い。
ゾロは船の見張り台の柵に凭れる姿勢で座り込み、強烈な眠気と格闘していた。
昨日の夜も見張り台で朝まで眠ってしまい、大幅に反れた航路に気づいたナミにこっぴどく怒られた。「あんたは満足に見張りもできないわけ?」とナミに心底馬鹿にした口調で言われたことは少なからず彼の自尊心を傷つけた。今日は同じ失敗を繰り返さないと決めたゾロは目をごしごしと擦り、遠くに揺れる三日月にぼんやりと視線をやった。
冷たい空気が辺りを包み、甲板に吹きすさぶ風は夜の海の遥か向こうまで唸るような音を立てて走り抜けていく。頭の芯が痺れるような夜の寒さに、ゾロは身震いをしながら足元にある毛布を掴んで自分の肩に掛けた。
ふと甲板に視線を遣ると、キッチンのドアが開きサンジが甲板に降りてくるのが見えた。こつこつと靴音を鳴らし、両肘を抱えて震えながら彼は甲板に立った。砲列の隙間から海を覗き込み、スーツの胸ポケットから出した煙草を咥えマッチで火を点ける。ぽかりと小さな灯りが夜の闇に浮かび上がるのが見える。
日付はとうに変わっている。この時間まで料理の仕込みや下準備、片付けなどをしていたのだろう。サンジはゾロには全く気づかない様子で、ただ黙って暗闇の中に紫煙を吐き出している。
ゾロは何となく甲板に立つサンジから目を逸らせなくなってしまった。こうやって黙って立っていたら、それなりに様になる男なのだと思う。すらりと伸びた足や、小さな頭、金髪、ブルーグレイの瞳。彼を形作るそれらの記号をゾロは嫌いではない。むしろ何となくそれらをひとつひとつ確かめるように彼を目で追う自分がいる。例えば無精髭や中毒の煙草や口汚さや凶悪な視線。それらは全て同じ男のものなのに、やはりサンジの容姿にははっとするような本物の魅力がある。少しばかり小奇麗なチンピラという姿かたちでも、ふと彼の髪が揺れる瞬間に息を飲むような。ナミでさえも、彼がキッチンで見せる無駄のない仕草やストイックな後姿に目を奪われているように見えるときがある。ゾロも時を忘れて引き込まれる。目を奪われて躊躇する。冗談のようにアンバランスなその存在感は、奇妙ですらある。
そうやってぼんやり自分を見つめるゾロの視線にサンジが気づいたとき、彼は決まってゾロの瞳をじっと見返し、次の瞬間、少し悲しそうな表情をする。そして黙って視線を逸らす。
甲板に強い風が吹いて、サンジの金髪が舞い狂っている。月の灯りに照らされて、彼の髪は鈍い輝きを増している。
すっとサンジが自分の足元に視線を落としたとき、何故か彼が泣くような気がしてゾロは体を乗り出した。しかしサンジはそのまましばらく下を向いただけですぐに顔を上げた。
そして煙草の吸殻を海に捨て、甲板を横切ると船室のドアの中に消えていった。
「おい、ゾロ!・・・なんだ起きてたのか」
翌朝、見張り台にルフィが顔を出した。梯子は使わず、マストをよじ登ってきたらしい船長はゾロが起きているのを確認してあからさまに落胆した様子を見せる。
「見張りが起きてたらいけねぇのかよ」
「ちぇっ、昨日みたいにナミにやっつけられるお前が見れると思ったのに・・・」
「てめぇ、どうせウソップと賭けてやがっただろう」
「すげぇな、何でわかるんだ?朝食の肉をちょっとな。あ~あ、絶対寝てると思ったのにな」
心底残念そうに言うルフィにゾロはにやりと歯を見せて笑った。昨夜から引き摺っていた感情の残滓さえ消し去る力を持つ彼は、東の空から昇る太陽のようだ。ルフィは見張り台の柵の上に腰を下ろし、マスト越しに朝の海を振り仰いでいる。ゾロも立ち上がってルフィの肩越しに水平線を見つめた。
船は時折、上下に大きく揺れながら順調な航路を保ち進んでいる。あと少しで目指す航路を捕らえることになる。
「グランドラインだぜぇ、ゾロ。わくわくすんなぁ」
「ああ。・・・後で、進水式でもするか?」
「しんすいしき?何だそれ。食えるのか?」
「俺もよくは知らねぇが、航海がうまくいくようにする儀式みてぇなもんだろ。海賊は 船員の士気を高めるために、目当ての海域に入る前にちょっとした式を開いて、酒飲んだりうまいもの食ったりするらしいぜ」
「やろうやろう!!なんかよくわからねぇけどかっこいいじゃんか。うまいもん食おう!」