夜空に昇る魚
小さなキャラベル船の小さなキッチンを、サンジは一目で好きになった。
もちろんサンジはコックであるのだから、キッチンならどんなキッチンでも人生にとって、最も重要な場所であることに変わりはない。
幼い頃、母を見様見まねで手伝ったキッチンの記憶は淡い感慨でサンジの胸を満たす。手伝いのご褒美として、母がサンジの手に握らせてくれた甘いお菓子の味までが蘇ってくる。見習として過ごした海辺のレストランにある調理場は、材料の仕込みの合間に真夜中まで料理の修業をした思い出の場所でもある。そしてバラティエのいつも活気に溢れていた厨房で、サンジは料理の全てを教えられた。いくつもの場所でいくつものキッチンをサンジは愛してきた。
ゴーイングメリー号のキッチンは大きさで言うと今までのどのキッチンよりも小さい。けれどレンガ造りの壁や、換気扇の位置、固い椎の木でできた床など全てが機能的に作られていて気持ちがいい。このキッチンを設計した人は、船上生活における「食べる」という行為の重要性をよく理解していたのだと思う。使い込めば、きっともっといい場所になる。レンガの壁に使い慣れた台所用品を並べ、食器棚には品が良くて割れにくい食器をひとつひとつ買い足していく。グラス類は毎日ぴかぴかに磨いて、照明は少し明るさを落とした方がいい。
そうやって少しずつここを、立つだけで心がきりりと引き締まるような理想のキッチンにしよう、とサンジは思っていた。
サンジはキッチンで夕食の準備をしていた。
鰯を一匹手に取り、腹を下にして首の骨を折る。鰯の骨は柔らかいのでサンジの手の中で簡単に折れる。そのまま折れた首を持ち腹に向かって引っ張ると、内臓ごとぽろりと取れる。残りの内臓も親指で掻きだし、ボウルに溜めた水で洗う。生臭い血の臭いがサンジの鼻腔を微かに擽る。
魚を料理しているときは、生命そのものを料理しているという気になる。鰯の骨や内臓の感触は、生き物の命を奪うことの罪悪感をサンジの心に惹き起こす。
温まったフライパンにみじん切りしたにんにくとオリーブオイルを入れ、鰯を綺麗に並べていく。熱を吸った鰯の銀色の身がきゅっと引き締まるのを見計い、手早く微塵切りにしたローズマリーやタイムなどのハーブを振り掛ける。何度か鰯をひっくり返した後、白ワインを流しいれフライパンの温度を下げる。料理に使う酒とはいえ、最高級のものを使う。ほとんど時間を置かずレモンを絞り、フライパンを左右に揺らして水分と油を乳化させる。そして仕上げにもう一度オリーブオイルをかけ、フライパンを火から外すと鰯を白い皿に盛る。彩りに鮮やかなパセリを添えることも忘れない。
フライパンに鰯を入れてここまで5分ほどの時間だ。材料が最高のハーモニーを奏でるために熱と時間を操作するのがコックの仕事だとサンジは教えられた。良い料理人になるということは火と時間の紙一重のバランスを熟知することだ。そうすれば自然と、材料は美しい音楽を奏でてくれる。
サンジは靴の底で床を鳴らしながらキッチンを横切り、冷蔵庫から白い大皿を取り出す。先ほど下準備しておいたカジキのカルパッチョをテーブルの上に置き、刻んだ万能ネギを薄い桃色のカジキの身の上に散らす。ワインビネガーとオリーブオイル、塩コショウでシンプルに味付けしたカルパッチョには、ハーブよりも少し癖のあるネギのような薬味が合う、とサンジは考えている。
サンジは再びコンロの前に立ち、鉄製の鍋を火にかける。中には帆立の貝柱と生クリームをあえたソースが入っている。そこにアルデンテに茹でたスパゲッティを入れ、さっとソースと絡める。海の香りを内部に閉じ込めた帆立は口の中に入れると雪のように蕩け、固めに茹でたアスパラガスの食感と混ざり合って最高のパスタになる。女性を喜ばせる、ということを第一に考えるサンジにとって、美味いパスタ料理を作るということは人生の重要なテーマの一つでもある。
オーブンの中にある骨付きプライムリブのローストが焼きあがれば、今夜の夕食が完成する。完璧に仕上げられた料理を給仕するという料理人としての至福の時を味わうまで、サンジは料理の並んだテーブルの前に腰掛けて、スーツのポケットから煙草を取り出した。
「終わったのか?」
その時、開いたキッチンのドアに凭れてゾロが立っているのに気がついた。サンジは内心驚きながらも感情を表さないように気を使い、「何だ、いたのかよ」と低い声を出した。
「ああ」
とゾロは答える。
「いつからいた?」
「随分前からいたぞ」
「いたなら声かけろよ。気持ち悪いな」
「かけようと思ったけど、お前忙しそうだったからよ。飯できたのか?」
ゾロはドアから背中を離し、テーブルの方に歩いてくるとサンジの向かいの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「後少しだよ。腹減ったのか?何かつまむか?」
「いい。待つ」
そう言ってゾロは椅子の背にもたれて足を組んだ。しかし腹は減っているらしく、待ちきれない様子で貧乏揺すりのように足の先を揺らしてる。その様子がお預けを食らった犬みたいでおかしかったので、サンジはふっと微笑みを洩らして立ち上がり、ローストビーフの焼き具合を確かめるためにオーブンの中を覗き込んだ。
プライムリブはいい具合に焼きあがっていた。サンジはオーブンから取り出したローストをまな板の上に乗せると、肉切り包丁で端からカットしていった。芳ばしそうに焼けた外側に刃を当てて引くと、レアに仕上がった内部の肉がこそげ、そこから肉汁が溢れ出てくる。何ともいえない肉の香りが辺りに充満する。後ろにいる男がごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。
サンジはゾロにあまり好かれていないことをよく知っていた。
元来無口な男は、特に女性に対して甘い言葉を機関銃のように吐き続けるサンジのような種類の男を全く理解できないらしい。サンジがナミにいい様に使われている様子をいつもゾロは眉を顰めて不遜な眼差しで見ている。
そして最もゾロがサンジに対して驚きの目を向けたのは、あのアーロンパークの戦いのときだった。サンジが自分の身を犠牲にして、海の中に飛び込んだときのことだ。あれがルフィを助けだせることを充分に計算した上の行動ではなく、またナミを守るためにとっさにとった行動でもない、サンジのなかにある自暴自棄で破滅的な傾向が生んだものであると、ゾロは直感的に考えたのかもしれない。戦いが終わった後、奇妙な目をしてサンジを見ていたゾロの姿によってサンジはそのことを知った。
その夜、サンジは少し泣いた。自分に今さらそんな感情が湧いたことが不思議だったが、ゾロに軽蔑されたことが辛かった。あの時のサンジには自分の命しか賭けるものがなかったのだと、説明したところで男には理解できないだろう。
サンジは皿に盛ったローストビーフをテーブルに並べると、一番端に置いた一切れを指先で摘んでテーブルに身を乗り出し、反対側に座るゾロの顔の前に運んだ。
「食えよ。味見」
もちろんサンジはコックであるのだから、キッチンならどんなキッチンでも人生にとって、最も重要な場所であることに変わりはない。
幼い頃、母を見様見まねで手伝ったキッチンの記憶は淡い感慨でサンジの胸を満たす。手伝いのご褒美として、母がサンジの手に握らせてくれた甘いお菓子の味までが蘇ってくる。見習として過ごした海辺のレストランにある調理場は、材料の仕込みの合間に真夜中まで料理の修業をした思い出の場所でもある。そしてバラティエのいつも活気に溢れていた厨房で、サンジは料理の全てを教えられた。いくつもの場所でいくつものキッチンをサンジは愛してきた。
ゴーイングメリー号のキッチンは大きさで言うと今までのどのキッチンよりも小さい。けれどレンガ造りの壁や、換気扇の位置、固い椎の木でできた床など全てが機能的に作られていて気持ちがいい。このキッチンを設計した人は、船上生活における「食べる」という行為の重要性をよく理解していたのだと思う。使い込めば、きっともっといい場所になる。レンガの壁に使い慣れた台所用品を並べ、食器棚には品が良くて割れにくい食器をひとつひとつ買い足していく。グラス類は毎日ぴかぴかに磨いて、照明は少し明るさを落とした方がいい。
そうやって少しずつここを、立つだけで心がきりりと引き締まるような理想のキッチンにしよう、とサンジは思っていた。
サンジはキッチンで夕食の準備をしていた。
鰯を一匹手に取り、腹を下にして首の骨を折る。鰯の骨は柔らかいのでサンジの手の中で簡単に折れる。そのまま折れた首を持ち腹に向かって引っ張ると、内臓ごとぽろりと取れる。残りの内臓も親指で掻きだし、ボウルに溜めた水で洗う。生臭い血の臭いがサンジの鼻腔を微かに擽る。
魚を料理しているときは、生命そのものを料理しているという気になる。鰯の骨や内臓の感触は、生き物の命を奪うことの罪悪感をサンジの心に惹き起こす。
温まったフライパンにみじん切りしたにんにくとオリーブオイルを入れ、鰯を綺麗に並べていく。熱を吸った鰯の銀色の身がきゅっと引き締まるのを見計い、手早く微塵切りにしたローズマリーやタイムなどのハーブを振り掛ける。何度か鰯をひっくり返した後、白ワインを流しいれフライパンの温度を下げる。料理に使う酒とはいえ、最高級のものを使う。ほとんど時間を置かずレモンを絞り、フライパンを左右に揺らして水分と油を乳化させる。そして仕上げにもう一度オリーブオイルをかけ、フライパンを火から外すと鰯を白い皿に盛る。彩りに鮮やかなパセリを添えることも忘れない。
フライパンに鰯を入れてここまで5分ほどの時間だ。材料が最高のハーモニーを奏でるために熱と時間を操作するのがコックの仕事だとサンジは教えられた。良い料理人になるということは火と時間の紙一重のバランスを熟知することだ。そうすれば自然と、材料は美しい音楽を奏でてくれる。
サンジは靴の底で床を鳴らしながらキッチンを横切り、冷蔵庫から白い大皿を取り出す。先ほど下準備しておいたカジキのカルパッチョをテーブルの上に置き、刻んだ万能ネギを薄い桃色のカジキの身の上に散らす。ワインビネガーとオリーブオイル、塩コショウでシンプルに味付けしたカルパッチョには、ハーブよりも少し癖のあるネギのような薬味が合う、とサンジは考えている。
サンジは再びコンロの前に立ち、鉄製の鍋を火にかける。中には帆立の貝柱と生クリームをあえたソースが入っている。そこにアルデンテに茹でたスパゲッティを入れ、さっとソースと絡める。海の香りを内部に閉じ込めた帆立は口の中に入れると雪のように蕩け、固めに茹でたアスパラガスの食感と混ざり合って最高のパスタになる。女性を喜ばせる、ということを第一に考えるサンジにとって、美味いパスタ料理を作るということは人生の重要なテーマの一つでもある。
オーブンの中にある骨付きプライムリブのローストが焼きあがれば、今夜の夕食が完成する。完璧に仕上げられた料理を給仕するという料理人としての至福の時を味わうまで、サンジは料理の並んだテーブルの前に腰掛けて、スーツのポケットから煙草を取り出した。
「終わったのか?」
その時、開いたキッチンのドアに凭れてゾロが立っているのに気がついた。サンジは内心驚きながらも感情を表さないように気を使い、「何だ、いたのかよ」と低い声を出した。
「ああ」
とゾロは答える。
「いつからいた?」
「随分前からいたぞ」
「いたなら声かけろよ。気持ち悪いな」
「かけようと思ったけど、お前忙しそうだったからよ。飯できたのか?」
ゾロはドアから背中を離し、テーブルの方に歩いてくるとサンジの向かいの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「後少しだよ。腹減ったのか?何かつまむか?」
「いい。待つ」
そう言ってゾロは椅子の背にもたれて足を組んだ。しかし腹は減っているらしく、待ちきれない様子で貧乏揺すりのように足の先を揺らしてる。その様子がお預けを食らった犬みたいでおかしかったので、サンジはふっと微笑みを洩らして立ち上がり、ローストビーフの焼き具合を確かめるためにオーブンの中を覗き込んだ。
プライムリブはいい具合に焼きあがっていた。サンジはオーブンから取り出したローストをまな板の上に乗せると、肉切り包丁で端からカットしていった。芳ばしそうに焼けた外側に刃を当てて引くと、レアに仕上がった内部の肉がこそげ、そこから肉汁が溢れ出てくる。何ともいえない肉の香りが辺りに充満する。後ろにいる男がごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。
サンジはゾロにあまり好かれていないことをよく知っていた。
元来無口な男は、特に女性に対して甘い言葉を機関銃のように吐き続けるサンジのような種類の男を全く理解できないらしい。サンジがナミにいい様に使われている様子をいつもゾロは眉を顰めて不遜な眼差しで見ている。
そして最もゾロがサンジに対して驚きの目を向けたのは、あのアーロンパークの戦いのときだった。サンジが自分の身を犠牲にして、海の中に飛び込んだときのことだ。あれがルフィを助けだせることを充分に計算した上の行動ではなく、またナミを守るためにとっさにとった行動でもない、サンジのなかにある自暴自棄で破滅的な傾向が生んだものであると、ゾロは直感的に考えたのかもしれない。戦いが終わった後、奇妙な目をしてサンジを見ていたゾロの姿によってサンジはそのことを知った。
その夜、サンジは少し泣いた。自分に今さらそんな感情が湧いたことが不思議だったが、ゾロに軽蔑されたことが辛かった。あの時のサンジには自分の命しか賭けるものがなかったのだと、説明したところで男には理解できないだろう。
サンジは皿に盛ったローストビーフをテーブルに並べると、一番端に置いた一切れを指先で摘んでテーブルに身を乗り出し、反対側に座るゾロの顔の前に運んだ。
「食えよ。味見」