夜空に昇る魚
ゾロは、少し怪訝そうな顔でサンジを一瞥した後、大きく口を開けて肉に食いついた。ゾロの口内に薄いローストビーフの欠片が飲み込まれる瞬間、少しだけ彼の舌がサンジの指に触れた。熱い舌の感触は、サンジの胸に僅かな痛みを与える。
「うまい」
もぐもぐと口を動かしていたゾロはそれを飲み込むとそう言って、サンジを見てにやりと笑った。サンジは笑い返すと、「みんなを呼んでくる」とキッチンを出た。
キッチンのドアを後ろ手に閉めると、満天の星が視界に飛び込んでくる。空を見上げてサンジは白い煙を夜の空気に吐き出す。ゾロと二人きりになると、とたんにぴんと張り詰める空気が苦手だ。判っている。そうやって変に意識しているのは自分だけだと。しかしいつものように軽口を叩けるほどの余裕がない、今みたいなときは辛い。
例えば彼が、サンジの作った料理を「うまい」と認めてくれるならそれ以上に何も望むことはない、とサンジは思う。サンジは注意深く、徹底してこの船のコックになることに集中すればいい。
知ることは怖い。喪失することに怯えて、眠れない夜を迎えるなら、初めから何も持たない方がいい。
知るとは何を。喪失するとは誰を。
自分の思考や感情にさえ、注意深くあらねばならないのは神経を消耗する。
サンジは目を閉じて、並べた料理の前に座る男の姿を想像する。
男の目の前で、美しい料理が奏でる優しい音楽が聞こえたような気がした。
その日の夜、サンジは一人甲板にいた。
夜の海は圧倒的な暗さで、目の前に広がっている。
寄せては返す波の音は昼間の何倍もの大きさで響く。
海面を音もなく走るキャラベル船の最後尾の甲板。柵に凭れかかったサンジは、足を柵の隙間から空中に乗り出すようにして顔に夜風を受けている。柵の上に置かれた右手にはワインの瓶を持ち、口元には小さく発光する吸殻を咥えている。
潮風に吹かれて甲板に立つサンジの姿を飲み込むほど海と夜の闇は深い。酒で熱を持った顔に触れる夜風が心地よい。こうしていると現実感は船が進むごとに遠のいて、自分が海面すれすれを浮遊している気分になれる。何もかもどうでもいいような、全てを失ってもかまわないような気持ちになれる。
サンジは右手のワインボトルを傾け、鈍く光る液体を海面に落とした。
「おい」
ふいに背後から呼ばれた声に振り返ると、マストに取り付けられた電球の灯りの下にゾロが立っていた。
「何だよ。お前、神出鬼没な奴だな。気配消して近づくなって」
せっかくの幸福な時間を邪魔されたサンジが不機嫌そうに言うと、ゾロは黙って近づいてきてサンジの横に立った。
「何してる」
「酒、海に捨ててるんだよ」
サンジはふいとゾロから視線を逸らす。海を覗き込んで再び瓶を傾け、月光に染まった液体が海に吸い込まれていくのをじっと見つめた。
「酔ってんのか?」
「酔ってねぇよ」
「もったいねぇ」
「たいして味わいもせず底なしに飲みまくるウワバミみたいな奴に言われたくないね。・・・これは、供養だよ」
「供養?」
「そう。今日食べた魚への供養。バラティエにいたときさ、ジジイに教えられたんだ。毎日するわけじゃねぇけどな。思いついたときたまに。まあいいかげんなもんさ。ほとんど自己満足」
空には月と金星が、船と同じ速度で北に進んでいる。サンジはそれを見上げて、口笛を吹きはじめた。唇を尖らして、髪を風に靡かせてサンジは爪先立ちになり遥か天を仰いでいる。
金髪の男が月明かりの中、口笛を吹いている。
笑いたくなるほど陳腐な光景だと思いながら、しかしゾロは目を逸らすことができなかった。口笛を吹くサンジの姿はキッチンで見る後姿のように直向で、真摯だった。
歌の名前を尋ねることも忘れて視線を寄せるゾロに気づき、サンジは口笛を止める。
「・・・人間って罪深いよな。なんてな、ジジイの受け売りだけどよ。」
ゆらりと体を傾けて、手摺を離れたサンジはゾロの方に姿勢を向ける。
「でもほんとにそう思うよ。人間は動物とか植物とかの命を奪わないと生きていけねぇんだ。料理人はさ、そういうことに対する畏れとか感謝の気持ちを忘れちゃいけねぇって、ジジイに口が酸っぱくなるほど言われたもんさ。その時は何言ってんだって感じだったけど、こうしてときたま供養してやるの、結局クセになってんだよな」
ゾロを見て微笑んだサンジの瞳は、夜の闇のなかでは薄い銀色に見える。潮風に揺れる髪も肌蹴られたシャツから覗く尖った鎖骨も、全て昼間より儚く見える。落ち着かない気持ちになる。
「この酒な、シャブリってゆう白ワイン。なんつってもてめぇにはわからねぇか。これ1本の値段、たぶんお前の腰に掛かってる白い鞘の刀より高いぜ」
「・・・俺にも飲ませろ」
慌ててゾロがサンジの腕から瓶を奪おうとすると、サンジは「やーなこった」と右手を遠く空に伸ばし、ボトルの口を下に向けて残った液体を全て海に捨ててしまった。小さな波を立てただけで、ワインは一瞬で海面に飲まれて混じりあう。
「なぁんて嘘。そんなもったいねぇことするかよ。1本700ベリーの安物さ。何びびってんのお前」
サンジはそう言ってケタケタと楽しそうに笑う。瓶を取り合って揉みあったので、ゾロの腕はサンジの首に絡んで、胸をお互い押し付けた格好になっている。サンジの体は煙草の臭いと混じり微かにワインの甘い香りがする。
「やっぱりお前酔ってるだろ。船室戻れよ。仕舞いには海に落ちるぞ」
「んだよ。心配したような口聞いてよ」
サンジは首に絡んだゾロの腕を振り解こうとした。
「心配してんだよ」
「嘘つけ、俺のことなんてどうでもいいくせに」
そう拗ねたように言ったサンジが、右手でゾロの頭を押さえつけた拍子に二人の体はバランスを崩し、重なり合って甲板の方向に倒れ込んだ。サンジの体の重みを腹に受け、背中を強く打ったゾロが顔を顰めながら上半身を起こすと、足の間にサンジの一回り華奢な体が納まっていた。サンジの顔はゾロの胸に伏せられている。
「・・・そうでもねぇよ」
とゾロが答えると、サンジはゾロの体を引き剥がそうと暴れだした。そうはさせまいと、慌ててゾロはサンジの体に腕を回して押さえ込む。
「離せよ。触んな。」
「離したらお前、暴れんだろ」
「うるせぇ。暴れさせろ」
「ちょっと落ち着け」
そう言って、サンジの小さな頭を右腕で抱え込むと、サンジの抵抗が急に止んだ。しかし落ち着かない体勢を強いられたせいか、小さく肩が震えている。酔ったサンジの体温は僅かにゾロより高い。腕の中の熱を冷ましたくない気持ちで、ゾロは深くサンジの体を抱きこんだ。
「・・・お前、何かに似てると思ったらさ、昔飼ってた猫に似てる」
「ああ?」
「ガキの頃、道場の裏に住み着いた野良猫を家に連れて帰って飼ったことがあってよ。そいつ、金色の毛並みしててさ、見てくれはいいんだがすげぇ凶暴で買主の俺にもなかなか懐かなくてな。毎日のように引っ掻かれたり噛まれたりして、ほとほと手ぇ焼いたよ。そのうちふいと出て行っちまってそれっきり帰って来なかった。・・・そん時はすげぇ悲しくて、泣いたよ」