神聖ロミオとチェネレントーラ第一話
第一話『ペンタメローネの記憶』
ねえ神聖ローマ、きょうはどんな話をおしえてくれるの?
掛け布団のなかで繋いだ小さな指が、すこし湿って温かかった。
真っ暗になると怖がって眠れなくなるのはこいつの悪いくせだ。雷が鳴ろうものなら涙で目を腫らしながら、隣で寝ていいかを聞くくらいだ。加えて、イタリアは昔の話が大好きだ。だから口承の童話を話してきかせることにした。ボッカチオが著した『十日物語』のまねを始めて五日目の夜、イタリアはそう尋ねた。
「そ、そうだな。じゃあ次は……」
すらりと次の物語が思い浮かべられなくて次の句を見失う。オーストリアに勉強を教えてもらっていても、その知識がそのまま流暢に出てくるわけではないからだ。頭のなかで物語の断片がぐるぐるするうちにも、いつもはよく覗きこめないイタリアの目の奥が、いまだけはぱっちりと開いて俺を見つめてくる。栗色の髪と同じ色の瞳は興味津々と溢れんばかりの光を輝かせている。
とうの昔に死んでしまったゲルマン爺から教わった物語はさして多くはない。あの人の強さもなにもかも受け継ぎたかったが、口下手まで受け継ぐとは思っていなかった。伝えたい言葉の二割も伝わらない気がする。今日も言えなかったし、明日もきっと言えないだろう。明後日は会えるかどうか分からない。その次も、その次の次も、長い戦争が始まるからしばらく会えないかもしれない。
「あのな……Aschenputtelって知ってるか?」
「あっしぇんぷってる?」とイタリアは小さな声で反復する。俺は「Ja」と短く肯定した。
「意味、灰かぶりっていうんだ。いじめられているやさしい女の子が、鳩の助けを借りて舞踏会にいって、王子様をすきになって……それで王子様も灰かぶりがすきになって、おとした片方の靴をもって迎えにいくはなし。お前にぴったりだと……おもう」
最後の一言は完全に余計だった。灰かぶりとイタリアの境遇の近似に顔がカァッと熱くなった。二人とも親を亡くし、使用人同然の下働きをさせられているのだ。この物語では王子様が灰かぶりを迎えに行く。自分が王子様だとは思いたくないが、論理の上だと言外に告白してしまった気がする。布団を顔の上まで引っ張って顔を隠した。オーストリアに蝋燭を吹き消されたのが唯一の救いだ。
イタリアはふにゃふにゃの声で笑む。
「お兄ちゃんのうちのCenerentolaみたいだね」
「き、聞きあきたなら言っていいんだぞ。お、俺はもう寝る!」
ころんと背を向けて掛け布団を握りこむ。熱いくらいの体温が背中に寄り添っているのに、俺の心臓はもっと熱く強くばくばくと打った。イタリアは俺の背中をゆさゆさと揺らした。
「やだよ、ぼく、ききたいよ。Cenerentolaはこわいはなしなんだもん。ゼゾッラが衣装箱のふたを落として、お母さんをころしちゃうんだよ。そんなこわいのやだよ。幸せになれるようなおはなしがききたいよ。おしえてよ、神聖ローマ」
「そ、それじゃ……わかった。この話きいたら寝ろよ」
小さな手が俺の寝巻を掴んだ。寄り添うイタリアの柔らかい背中をぽんと叩いて、最初の Es war einmal を呟いた。
お母さんに殺されて、
お父さんに食べられた。
妹マリアが骨を残らず探し出し、
絹の布に包んでネズの木の下に置いた。
ピイチク、ピイチク、ぼくはきれいなことりでしょ。
――――『グリム童話』KHM47:「ネズの木」(Von dem Machandelboom)より抜粋
指をそうっと冷やす風に、フェリシアーノはたまらず目を覚ました。重い瞼は覚醒を拒むように意識を安楽の眠りにつき落そうとするが、このときばかりはすぐに夢路に戻るのをよしとしなかった。上半身だけをむっくりと起こし、すっかり冷えた手の甲でごしごしと目をこする。裸の下膊はすでに、毛を残さずむしられて冷凍された七面鳥肉のように粟立っている。復活祭(Pasqua)が終わってひと月くらいは過ぎた五月の夜でも、泊まりに来たドイツの地はまだまだ寒い。それはフェリシアーノが寝るときにルートヴィヒの体温をあてにして一糸まとわず布団に入るせいもあるが、それだけでは決してあるまい。
「寒いよぉ……」
漏れた呟きは月影に仄明るい寝室に吸い込まれて消えた。手のひらにふうふうと息を吐いてこする。それでもやっぱり寒くて、ベッドの端に畳んで置いてあった長袖のパーカーを羽織る。外気にさらされていたとはいえ、数秒で綿繊維は体温をとどまらせるようになった。
これで雨が降ったり雷が鳴ったりしていないのが唯一の救いだ。ローデリヒの家で下働きをしていた頃なんか、雷が鳴るたびに怖がって泣いてしまっていた。暑かろうが寒かろうが誰かの布団にもぐりこむところは、今も昔も変わっていないようだ。
再び布団にもぐりこんで、自分より一回り大きなぬくもりに背中から両腕を回した。等身大の人間湯たんぽは筋肉でごつごつしているが、そのむきむきが温かいのは何十年も昔から知っていた。寝言か、低い声が「むぅ」と唸って向こう側にごろりと転がった。まあいいかと背中をくっつけて温まる。三匹の飼い犬も寝静まる、菊が言っていた「丑三つ時」。ベッドに隣接した南向きの窓には満月の明りがやや斜めに降り注いでいる。このくらいの時間に南中を迎える月は満月に近いようで、空はひとつひとつの粒が輝くくらい、澄んだ紺碧を窓の桟の奥に広げている。
しかし、眠れない。
瞳を閉じ、綿布団をぎゅうっと握りしめて、記憶の糸を手繰る。寝る前にジェラートを食べ過ぎたからだろうか。それともクーヘンがまだ胃に残っているからだろうか。あんなにごつごつしていて甘いものなど受け付けなさそうなルートヴィヒが、連休初日には泡立て器を片手にお菓子作りをするものだから、ワインと一緒につい食べ過ぎてしまった。今日はバウムクーヘンとパンナコッタを一緒に作った。ルートヴィヒの兄のギルベルトと一緒にパスタを食べた。
ここにロヴィーノやアントーニョがいればもっと楽しいし、ローデリヒやエリザベータやフランシスもいたらもっと楽しいなと思って、ふっと頬が緩んだ。知っている人をみんな呼んでパーティーをしたい。テーブルの上にはパスタやピッツァを並べて、ジェラートやクーヘンを食べて、ワインやビールを飲んで、いつでも手の届く位置にトマトがあって、みんなべろんべろんに酔っぱらって、嫌なことや辛いことを全部忘れて、歌い始めたり踊り始めたりして。フランシスは誰彼構わず「お手を拝借」と言い出すだろうし、アントーニョはフラメンコを踊ってくれるだろうし、ギルベルトは酔った拍子にエリザベータにフライパンでなぐられるだろうし。たくさんの椅子が並べられていて、どこに座っていてもみんな仲良くご飯を食べられるんだ。今までに会った人を全員呼んで、ワインを飲んだりビールを飲んだりしたい。サン・ピエトロにいるヴァチカン爺ちゃんや、ローマ爺ちゃんも呼びたいし、会ったことないけどルートヴィヒのお父さんにも会いたいな。それと……ああ、彼はもういないんだった。
ねえ神聖ローマ、きょうはどんな話をおしえてくれるの?
掛け布団のなかで繋いだ小さな指が、すこし湿って温かかった。
真っ暗になると怖がって眠れなくなるのはこいつの悪いくせだ。雷が鳴ろうものなら涙で目を腫らしながら、隣で寝ていいかを聞くくらいだ。加えて、イタリアは昔の話が大好きだ。だから口承の童話を話してきかせることにした。ボッカチオが著した『十日物語』のまねを始めて五日目の夜、イタリアはそう尋ねた。
「そ、そうだな。じゃあ次は……」
すらりと次の物語が思い浮かべられなくて次の句を見失う。オーストリアに勉強を教えてもらっていても、その知識がそのまま流暢に出てくるわけではないからだ。頭のなかで物語の断片がぐるぐるするうちにも、いつもはよく覗きこめないイタリアの目の奥が、いまだけはぱっちりと開いて俺を見つめてくる。栗色の髪と同じ色の瞳は興味津々と溢れんばかりの光を輝かせている。
とうの昔に死んでしまったゲルマン爺から教わった物語はさして多くはない。あの人の強さもなにもかも受け継ぎたかったが、口下手まで受け継ぐとは思っていなかった。伝えたい言葉の二割も伝わらない気がする。今日も言えなかったし、明日もきっと言えないだろう。明後日は会えるかどうか分からない。その次も、その次の次も、長い戦争が始まるからしばらく会えないかもしれない。
「あのな……Aschenputtelって知ってるか?」
「あっしぇんぷってる?」とイタリアは小さな声で反復する。俺は「Ja」と短く肯定した。
「意味、灰かぶりっていうんだ。いじめられているやさしい女の子が、鳩の助けを借りて舞踏会にいって、王子様をすきになって……それで王子様も灰かぶりがすきになって、おとした片方の靴をもって迎えにいくはなし。お前にぴったりだと……おもう」
最後の一言は完全に余計だった。灰かぶりとイタリアの境遇の近似に顔がカァッと熱くなった。二人とも親を亡くし、使用人同然の下働きをさせられているのだ。この物語では王子様が灰かぶりを迎えに行く。自分が王子様だとは思いたくないが、論理の上だと言外に告白してしまった気がする。布団を顔の上まで引っ張って顔を隠した。オーストリアに蝋燭を吹き消されたのが唯一の救いだ。
イタリアはふにゃふにゃの声で笑む。
「お兄ちゃんのうちのCenerentolaみたいだね」
「き、聞きあきたなら言っていいんだぞ。お、俺はもう寝る!」
ころんと背を向けて掛け布団を握りこむ。熱いくらいの体温が背中に寄り添っているのに、俺の心臓はもっと熱く強くばくばくと打った。イタリアは俺の背中をゆさゆさと揺らした。
「やだよ、ぼく、ききたいよ。Cenerentolaはこわいはなしなんだもん。ゼゾッラが衣装箱のふたを落として、お母さんをころしちゃうんだよ。そんなこわいのやだよ。幸せになれるようなおはなしがききたいよ。おしえてよ、神聖ローマ」
「そ、それじゃ……わかった。この話きいたら寝ろよ」
小さな手が俺の寝巻を掴んだ。寄り添うイタリアの柔らかい背中をぽんと叩いて、最初の Es war einmal を呟いた。
お母さんに殺されて、
お父さんに食べられた。
妹マリアが骨を残らず探し出し、
絹の布に包んでネズの木の下に置いた。
ピイチク、ピイチク、ぼくはきれいなことりでしょ。
――――『グリム童話』KHM47:「ネズの木」(Von dem Machandelboom)より抜粋
指をそうっと冷やす風に、フェリシアーノはたまらず目を覚ました。重い瞼は覚醒を拒むように意識を安楽の眠りにつき落そうとするが、このときばかりはすぐに夢路に戻るのをよしとしなかった。上半身だけをむっくりと起こし、すっかり冷えた手の甲でごしごしと目をこする。裸の下膊はすでに、毛を残さずむしられて冷凍された七面鳥肉のように粟立っている。復活祭(Pasqua)が終わってひと月くらいは過ぎた五月の夜でも、泊まりに来たドイツの地はまだまだ寒い。それはフェリシアーノが寝るときにルートヴィヒの体温をあてにして一糸まとわず布団に入るせいもあるが、それだけでは決してあるまい。
「寒いよぉ……」
漏れた呟きは月影に仄明るい寝室に吸い込まれて消えた。手のひらにふうふうと息を吐いてこする。それでもやっぱり寒くて、ベッドの端に畳んで置いてあった長袖のパーカーを羽織る。外気にさらされていたとはいえ、数秒で綿繊維は体温をとどまらせるようになった。
これで雨が降ったり雷が鳴ったりしていないのが唯一の救いだ。ローデリヒの家で下働きをしていた頃なんか、雷が鳴るたびに怖がって泣いてしまっていた。暑かろうが寒かろうが誰かの布団にもぐりこむところは、今も昔も変わっていないようだ。
再び布団にもぐりこんで、自分より一回り大きなぬくもりに背中から両腕を回した。等身大の人間湯たんぽは筋肉でごつごつしているが、そのむきむきが温かいのは何十年も昔から知っていた。寝言か、低い声が「むぅ」と唸って向こう側にごろりと転がった。まあいいかと背中をくっつけて温まる。三匹の飼い犬も寝静まる、菊が言っていた「丑三つ時」。ベッドに隣接した南向きの窓には満月の明りがやや斜めに降り注いでいる。このくらいの時間に南中を迎える月は満月に近いようで、空はひとつひとつの粒が輝くくらい、澄んだ紺碧を窓の桟の奥に広げている。
しかし、眠れない。
瞳を閉じ、綿布団をぎゅうっと握りしめて、記憶の糸を手繰る。寝る前にジェラートを食べ過ぎたからだろうか。それともクーヘンがまだ胃に残っているからだろうか。あんなにごつごつしていて甘いものなど受け付けなさそうなルートヴィヒが、連休初日には泡立て器を片手にお菓子作りをするものだから、ワインと一緒につい食べ過ぎてしまった。今日はバウムクーヘンとパンナコッタを一緒に作った。ルートヴィヒの兄のギルベルトと一緒にパスタを食べた。
ここにロヴィーノやアントーニョがいればもっと楽しいし、ローデリヒやエリザベータやフランシスもいたらもっと楽しいなと思って、ふっと頬が緩んだ。知っている人をみんな呼んでパーティーをしたい。テーブルの上にはパスタやピッツァを並べて、ジェラートやクーヘンを食べて、ワインやビールを飲んで、いつでも手の届く位置にトマトがあって、みんなべろんべろんに酔っぱらって、嫌なことや辛いことを全部忘れて、歌い始めたり踊り始めたりして。フランシスは誰彼構わず「お手を拝借」と言い出すだろうし、アントーニョはフラメンコを踊ってくれるだろうし、ギルベルトは酔った拍子にエリザベータにフライパンでなぐられるだろうし。たくさんの椅子が並べられていて、どこに座っていてもみんな仲良くご飯を食べられるんだ。今までに会った人を全員呼んで、ワインを飲んだりビールを飲んだりしたい。サン・ピエトロにいるヴァチカン爺ちゃんや、ローマ爺ちゃんも呼びたいし、会ったことないけどルートヴィヒのお父さんにも会いたいな。それと……ああ、彼はもういないんだった。
作品名:神聖ロミオとチェネレントーラ第一話 作家名:シャン