神聖ロミオとチェネレントーラ第一話
窓の外からは鳥の声が聞こえる。ひと晩じゅう寄りかかっていたマットレスは体温を吸って温かくなっている。ランプシェードの横に忘れていたヴェネチアンガラスの皿には白いパンナコッタを削り取った跡が残っている。神聖ローマが目を覚ましたときのためにパンナコッタを用意したのだけれど、いつの間にかつまみ食いしてしまって、二皿もなくなってしまった。これはローデリヒへのお土産として作ったものだ。また生クリームを買ってこよう。
顔をむくりと上げると、まだ朝に慣れていない目に太陽の光が矢のように射した。手を翳して窓枠の奥を眺める。レースの奥に臨める、青色のキャンバスに白の絵の具を塗りたくったような空は、もう時刻が朝早いということを示している。
フェリシアーノは繋いだままの手をきゅっと握った。その手の先にいるのはいまだ目を覚まさぬ神聖ローマである。夜中、魔王に怯える子供をあやすようにずっと手を繋いでいたが、いつのまにかそのまま眠っていたらしい。繋ぎ合う手と手は熱く湿っていた。幼いころと変わっているのは、お互いに歳を重ねたということだけだ。神聖ローマの指は長い戦の中でまめだらけになり、フェリシアーノの指は細く長くなったとしても男性の指に変わりはない。自分の性別が間違えられていた頃とは似ても似つかぬ指なのである。
豊かな金髪は朝の光を浴びて輝きを増す。背も大分伸びていて、フェリシアーノと同じくらいであろう。ルートヴィヒが髪を下ろして、そのまま六つくらい遡ったような容貌をしている。そうだとしても少し童顔気味だ。そのうえ筋肉も贅肉もない。細い顔立ちにレースの薄い影が身体の曲線にそって投影されている。ゲルマン民族特有の白い肌には火傷痕のように古傷が走っている。三十年もの長い戦争を戦ってきたのだ。幼い身体で、さして強くもない体質をおして、剣をとって戦った。傷が絶えない道理はない。
それでも、とフェリシアーノはごつごつとした指に祈る。
天使様、神聖ローマをよみがえらせてくれてありがとう、と。
父なる神が基督を三日目の日曜日に復活させてくれたように、ゆうべ現れた天使は神聖ローマを生き返らせてくれたのだ。
「ん……」
ふと顔を覗き込むと、その眉間に薄く縦皺が寄った。瞼に閉じられた目がそっと開く。眩しいのか彼は窓から射しこむ光を手で遮った。ホープダイヤのような虹彩が不思議そうに天井を行き来する。
名を呼ぶと、顔がこちらを向く。
フェリシアーノは微笑して言った。
「おはよう」
彼にそう言えたのは、十七世紀ぶりということになるだろう。
照れくさそうに、不器用なりに笑う、神聖ローマの幼い顔立ちを思い出す。
本当は今すぐハグしてしまいたい。「おかえり」と言いたい。「どうして今まで帰ってこなかったの?」と問い詰めたい。それが出来ないのは、
神聖ローマが本当に不思議そうな表情をしているからだ。
旧い形のドイツ語が尋ねる。
「お前は……誰だ?」
心臓が、ひときわ大きく鼓動した。
神聖ローマはむくりと起き上がって、フェリシアーノの肩を掴んだ。その拍子に古傷か胸の病かは知らないが、胸の生地をぎゅっと掴んだ。
「『イタリア』がどこに行ったか知らないか!?」
ああ、声はあまり変わっていない。
変わったことといえば、少しはハキハキとしゃべれるようになったことくらいか。
「頼む、イタリアの行方を教えてくれ」
意識の表層だけを言葉だけが無情に過ぎる。
フェリシアーノは、限界まで目を細めた。微笑んでいるのだと思われるように。
忘れてはいけない。須らくイタリア人は『役者』であるべし。誰かが必ず何かの役を演じなければならない。イタリア人のリアクションがオーバーすぎると他国に評されるのも、自分がどんな役を演じるかによるからだ。
「『はじめまして』。俺、フェリシアーノ・ヴァルガスっていう『南イタリア』なんだ。ほら、人間名も読み方がスペイン語っぽいでしょ? イタリア=ロマーノって言われることが多いかな? 君が言っているのは、北イタリアで、俺の妹のFeliciaだと思うけど、違う?」
毎年、カルナヴァーレには参加しているつもりだった。
こんな仮面をかぶらなければならないのは、生まれて初めてだ。
作品名:神聖ロミオとチェネレントーラ第一話 作家名:シャン