私はあなたの黒い器
金属器から煌めきが消えた。「ああ、よくもったほうなんだが」シンドバッドが嘆き終えるよりも疾く、それまで全身を覆っていた魔装は解けていた。
身体はもはやぼろぼろで、人間としての魔力の残量を思い知る。
「シン! 退いて下さい!」
丸腰同然になってしまった王と先方から放たれた追撃の間にジャーファルが滑り込み、バララーク・セイの発動した衝撃がその全ての弾道を反らせる。まともに受け止めるだけの力は、もはや彼にも残っていないのだ。
「あなたを失えばシンドリアは終わる、分からないのですか!」
分からないよ。シンドバッドは思った。王が残っても民がいなくば国はないことと同義だというのに。双方共に守ることが叶わないならば、一体何が正義だというのか。
「立って、逃げるのです!」
ジャーファルは叫んだ。
逃げてくれ、などと。本来ならば有り得ないような台詞を、逃げようともしない君に言わしめるのは自分の無力さよ。
いくら叫ばれたとしても、「もう、身体はここから動かないんだがな」と、己の腕ごと輝きを失った金属器を掲げる。
「シンドバッド!」
ジャーファルの唇が過去に呼ばれ慣れた懐かしい形を取ったのに、黒いルフたちの濁流のような騒音が、音はかき消してしまったのは残念だったけれど。
どうしていうことを訊いてくれないのですか、と、涙声が聞こえた気がした。君が泣くなんていつ振りだろうね、などと思いながら、シンドバッドは眼前に迫る黒の奔流に、目を閉じたのだった。
その侵攻は、ものの十数時間前に突如として始まったのだった。
大きく切り立った絶壁で覆われた沿岸は、一見、国を外敵から守る防壁となりそうに思えた。しかし、空からの侵略者にとってそれは単なる土地の勾配でしかないことを、シンドリアの全ての国民は思い知ることとなる。
侵略者は空の高みから予告なく突如現れ、黒き神兵は空の青を塗り替えるように、シンドリア領空を取り巻いたのだった。
『城は捨てよう。民を街の中心に、少しでも多く集めるんだ』
シンドバッドは全員に細やかな指示を出した。彼の眼にはまだ希望が宿っていたから、皆安心してそれに従った。
持ちこたえれば必ず、救援はやってくる。最悪国をも捨てることになるかもしれなくても、王と民が残るならきっと、復興はたやすい。だから、少しでも多くの民を守り抜け、と。
しかしこの時既に、シンドリア国内からの救援要請は、密やかに放たれた少人数ではない伝令も、魔力を載せて飛ばせた言霊さえも、全て撃ち落とされていたのだ。
結果、助けは絶望的に遅れることとなる。そのことを知るのは相手立つ、黒の軍勢のみであったのだ。
「俺の国を滅ぼすためだけに、長い時を費やしたのだろうな」
シンドバッドはつぶやいた。神兵はあまりに多すぎた。シンドバッドが何度神罰の雷を放とうとも空の暗黒は晴れることなく、救援がやってくる気配もなかった。もはや、全員が疲れ果てていた。
黒き空の中心からゆっくりと降りてきたジュダルは、口角をゆっくりと持ち上げて、「久しいね、覇王」この台詞を口にする瞬間を、心待ちにしていたんだよ、とでも言うように。心底嬉しそうに「長らく、待たせたけれどさあ」口を開く。
「俺のものにしにきたよ」
暗黒のマギを中心にして、白と双対を成す禍々しい色彩のルフが膨れ上がる。膨大に空を冒したそれは、シンドバッドめがけ一直線にその汚れた手を伸ばした。黒い固まりのような、生き物のように醜く蠢く邪心の固まり。たとえ七海の覇王とはいえ、消耗した状態でそんなものをまともに受ければ、きっと精神はジュダルの軍門に降るだろう。
皆が終わりを覚悟した。
シンドリア国の終わりを。そして、この世界の終わりを。
しかし、黒いルフの群は、シンドバッドに到達するほんの僅か手前でその軌道を大きく逸れ、行き場所を見失ったかのように滞空する。やがて、緩やかにだが別の方向へと流れ始めたのだ。
「お許し下さい」
ジャーファルが言った。
彼は黒いルフの流れてゆく先に棒立ちになり、赤い液体を滴らせるバララーク・セイを、だらりと垂れ下がった両手に握りしめている。
「あなたに頂いた刀、汚してしまいました」
少しだけ笑みを浮かべながら口にしたジャーファルの、その首には、眷属器によって自らつけられたのであろう深く大きな傷がばっくりと開いている。血液を零しているのはバララーク・セイではないのだ。首から流れ出る血液が肩から腕を伝って、外界へ逃げているだけのことなのである。
そしてその匂いに寄せられるように、黒いルフたちが惑っていた。
ジャーファルはそのさまを忌々しげに眺めてから、
「集いなさい」
言霊は投げ出すように無造作に、しかし確かな意志を以て、「全て、私に」それが口された瞬間、ジャーファルが自ら作り出した致命傷にも近い傷口に、黒いルフたちが群がるように収束を始める。
「ジャーファル! おまえはッ」
シンドバッドの眼前で、ジャーファルの姿が次第に黒く霞んでいく。「やめろ、待て!」自分を見向きもせずに集っていく黒いルフたちを引き留めるように掴む手は、ただ空を切るだけ。
「やめろ……やめてくれ――ッ!」
黒の渦中に、小さな身体が呑み込まれていく。
密度の濃い常緑の木々が裂けて弾けるような、甲高い音が響いた。ジャーファルは苦痛のうめきすらあげることはなく、それを身に受け止めていた。
――ねえ、シンドバッド。
私とあなたが初めて出逢った日のこと、覚えていますか。
あなたが私に手を差し伸べたのは、その日が最初で最後のことでしたね。
以来、今度は私が手を伸べ続けては、あなたが必ずそれに応えた。
それは私には、とても、とても、幸せなことだったのです。
あなたを侵す憎しみの奔流も、汚れた数々の思惑も。私が全て受け止めようと。触れさせはしない、と。
全てを私の身の内に封じ込めて、決して逃しはしない。
あの日から、私はあなたの――
「あなたの為だけの、黒い器なのです」
あまり聞くかれたくないこと、というように、その部分だけはまるで独り言のように「殺して下さい」ひっそりと付け加えて。
「お願いです、シン」
ジャーファルは言った。
「あなたの愛する国を、あなたを一番愛するこの私に、滅ぼさせるおつもりですか」
今のあなたには、私の命を救うことはもうできないのです。私の意志のもと運命は満ちました。
私があなたにお願いをして、満足に叶えてもらえた試しなんてついぞないけれど、これは、最期のお願いなのです。どうか。
「ジャーファル……」
応えるように、ジャーファルは哀しげに微笑む。「正気のままで逝かせて下さい」黒い血液を吐き出しながら、小さく言って、それ以降はもう、言葉を発することはしなくなった。
「ジャーファル……ッ!」
シンドバッドは雷光剣を握ると、魔力を収束させ、解けてしまっていた魔装を再度纏い着ける。
いのちよもえろ。彼のいのちをたやすために。彼が望んだ明日のために。
構える。握りしめる。魔力の渦と黒いルフが背反し合って、何かが破裂するような音と共に閃光がはしった。剣を大きく引くのは突き出すため。その切先が、彼の身体を貫くため。
身体はもはやぼろぼろで、人間としての魔力の残量を思い知る。
「シン! 退いて下さい!」
丸腰同然になってしまった王と先方から放たれた追撃の間にジャーファルが滑り込み、バララーク・セイの発動した衝撃がその全ての弾道を反らせる。まともに受け止めるだけの力は、もはや彼にも残っていないのだ。
「あなたを失えばシンドリアは終わる、分からないのですか!」
分からないよ。シンドバッドは思った。王が残っても民がいなくば国はないことと同義だというのに。双方共に守ることが叶わないならば、一体何が正義だというのか。
「立って、逃げるのです!」
ジャーファルは叫んだ。
逃げてくれ、などと。本来ならば有り得ないような台詞を、逃げようともしない君に言わしめるのは自分の無力さよ。
いくら叫ばれたとしても、「もう、身体はここから動かないんだがな」と、己の腕ごと輝きを失った金属器を掲げる。
「シンドバッド!」
ジャーファルの唇が過去に呼ばれ慣れた懐かしい形を取ったのに、黒いルフたちの濁流のような騒音が、音はかき消してしまったのは残念だったけれど。
どうしていうことを訊いてくれないのですか、と、涙声が聞こえた気がした。君が泣くなんていつ振りだろうね、などと思いながら、シンドバッドは眼前に迫る黒の奔流に、目を閉じたのだった。
その侵攻は、ものの十数時間前に突如として始まったのだった。
大きく切り立った絶壁で覆われた沿岸は、一見、国を外敵から守る防壁となりそうに思えた。しかし、空からの侵略者にとってそれは単なる土地の勾配でしかないことを、シンドリアの全ての国民は思い知ることとなる。
侵略者は空の高みから予告なく突如現れ、黒き神兵は空の青を塗り替えるように、シンドリア領空を取り巻いたのだった。
『城は捨てよう。民を街の中心に、少しでも多く集めるんだ』
シンドバッドは全員に細やかな指示を出した。彼の眼にはまだ希望が宿っていたから、皆安心してそれに従った。
持ちこたえれば必ず、救援はやってくる。最悪国をも捨てることになるかもしれなくても、王と民が残るならきっと、復興はたやすい。だから、少しでも多くの民を守り抜け、と。
しかしこの時既に、シンドリア国内からの救援要請は、密やかに放たれた少人数ではない伝令も、魔力を載せて飛ばせた言霊さえも、全て撃ち落とされていたのだ。
結果、助けは絶望的に遅れることとなる。そのことを知るのは相手立つ、黒の軍勢のみであったのだ。
「俺の国を滅ぼすためだけに、長い時を費やしたのだろうな」
シンドバッドはつぶやいた。神兵はあまりに多すぎた。シンドバッドが何度神罰の雷を放とうとも空の暗黒は晴れることなく、救援がやってくる気配もなかった。もはや、全員が疲れ果てていた。
黒き空の中心からゆっくりと降りてきたジュダルは、口角をゆっくりと持ち上げて、「久しいね、覇王」この台詞を口にする瞬間を、心待ちにしていたんだよ、とでも言うように。心底嬉しそうに「長らく、待たせたけれどさあ」口を開く。
「俺のものにしにきたよ」
暗黒のマギを中心にして、白と双対を成す禍々しい色彩のルフが膨れ上がる。膨大に空を冒したそれは、シンドバッドめがけ一直線にその汚れた手を伸ばした。黒い固まりのような、生き物のように醜く蠢く邪心の固まり。たとえ七海の覇王とはいえ、消耗した状態でそんなものをまともに受ければ、きっと精神はジュダルの軍門に降るだろう。
皆が終わりを覚悟した。
シンドリア国の終わりを。そして、この世界の終わりを。
しかし、黒いルフの群は、シンドバッドに到達するほんの僅か手前でその軌道を大きく逸れ、行き場所を見失ったかのように滞空する。やがて、緩やかにだが別の方向へと流れ始めたのだ。
「お許し下さい」
ジャーファルが言った。
彼は黒いルフの流れてゆく先に棒立ちになり、赤い液体を滴らせるバララーク・セイを、だらりと垂れ下がった両手に握りしめている。
「あなたに頂いた刀、汚してしまいました」
少しだけ笑みを浮かべながら口にしたジャーファルの、その首には、眷属器によって自らつけられたのであろう深く大きな傷がばっくりと開いている。血液を零しているのはバララーク・セイではないのだ。首から流れ出る血液が肩から腕を伝って、外界へ逃げているだけのことなのである。
そしてその匂いに寄せられるように、黒いルフたちが惑っていた。
ジャーファルはそのさまを忌々しげに眺めてから、
「集いなさい」
言霊は投げ出すように無造作に、しかし確かな意志を以て、「全て、私に」それが口された瞬間、ジャーファルが自ら作り出した致命傷にも近い傷口に、黒いルフたちが群がるように収束を始める。
「ジャーファル! おまえはッ」
シンドバッドの眼前で、ジャーファルの姿が次第に黒く霞んでいく。「やめろ、待て!」自分を見向きもせずに集っていく黒いルフたちを引き留めるように掴む手は、ただ空を切るだけ。
「やめろ……やめてくれ――ッ!」
黒の渦中に、小さな身体が呑み込まれていく。
密度の濃い常緑の木々が裂けて弾けるような、甲高い音が響いた。ジャーファルは苦痛のうめきすらあげることはなく、それを身に受け止めていた。
――ねえ、シンドバッド。
私とあなたが初めて出逢った日のこと、覚えていますか。
あなたが私に手を差し伸べたのは、その日が最初で最後のことでしたね。
以来、今度は私が手を伸べ続けては、あなたが必ずそれに応えた。
それは私には、とても、とても、幸せなことだったのです。
あなたを侵す憎しみの奔流も、汚れた数々の思惑も。私が全て受け止めようと。触れさせはしない、と。
全てを私の身の内に封じ込めて、決して逃しはしない。
あの日から、私はあなたの――
「あなたの為だけの、黒い器なのです」
あまり聞くかれたくないこと、というように、その部分だけはまるで独り言のように「殺して下さい」ひっそりと付け加えて。
「お願いです、シン」
ジャーファルは言った。
「あなたの愛する国を、あなたを一番愛するこの私に、滅ぼさせるおつもりですか」
今のあなたには、私の命を救うことはもうできないのです。私の意志のもと運命は満ちました。
私があなたにお願いをして、満足に叶えてもらえた試しなんてついぞないけれど、これは、最期のお願いなのです。どうか。
「ジャーファル……」
応えるように、ジャーファルは哀しげに微笑む。「正気のままで逝かせて下さい」黒い血液を吐き出しながら、小さく言って、それ以降はもう、言葉を発することはしなくなった。
「ジャーファル……ッ!」
シンドバッドは雷光剣を握ると、魔力を収束させ、解けてしまっていた魔装を再度纏い着ける。
いのちよもえろ。彼のいのちをたやすために。彼が望んだ明日のために。
構える。握りしめる。魔力の渦と黒いルフが背反し合って、何かが破裂するような音と共に閃光がはしった。剣を大きく引くのは突き出すため。その切先が、彼の身体を貫くため。