しっぽのきもち
瞼の向こうが明るい。遠くでかすかに鳥のさえずりが聞こえる。もう朝だ。
鈍く曇った思考に届けられるのは、鍋や食材を刻む音、それに加え炊きたてのごはんと焼ける魚の匂いなどといった、朝食の気配だ。意識とは関係なく体が勝手にそれらを拾っていく。
それからまもなく目覚まし時計が鳴る。枕元でけたたましいそれを拳で吹っ飛ばすと、ガシャンと何かにぶつかる音がした。モモカンの鉄拳制裁を脳裏に浮かべて眠りを求める体を叱咤して、なんとか起き上がる。
「泉! お前はいくつ時計を壊せば気がすむんだよ!」
「……ふぁあ」
浜田が文句を言いながら振り向いたが、それにはあくびしか返せなかった。まだ眠い。
浜田に借りたサイズが合わないパジャマの袖で顔を拭いてみたが、眠気は飛ばない。気を抜くと再び体が眠りに戻ってしまいそうだ。低血圧なので、早起きに体がついてこない。
時計を吹っ飛ばされたことに怒っていたはずの浜田が、振り向いたままの恰好で止まっている。窘めるような表情は消えて、かわりに緩みきった笑顔が張りついていた。朝から挙動不審な奴め。
「泉、顔洗っておいで。ぼんやりしてるとすぐ時間来ちゃうぞ」
「うっせー……言われなくてもわかってる……」
サイズの合わないパジャマの裾をずるずると引きずって、台所の流しで顔を洗う。顔を拭いたタオルからは太陽と洗剤の匂いがして、気持ち良かった。ようやく頭が覚醒してくる。
台所に面した窓からは光がたくさん差し込んでいて、電灯がいらないほど眩しかった。
「おー、今日もいい天気だな」
「暑くなるかもしれないから水分補給すんの忘れんなよ」
「はいはい」
恒例の注意に適当に返事をすると、朝食の準備を終えたらしい浜田が先程のままの笑顔で近寄ってくる。今日は天気も気持ちのいい快晴に加え、朝食のおかずも好物が多かったので、特別に抱きついてやる。見上げた浜田は本当に嬉しそうにしていて、ちょっとだけ胸が高鳴った。
人一倍いろいろなことを経験してきているくせに、笑った顔は子供のように無邪気で、そのギャップに引きつけられる。妙に気になって仕方ない。そんなことを考えながらじっと浜田の顔を見つけていると、後頭部に手が回された。
「調子乗ってんじゃねえよ」
今日の朝は確かに出血大サービスだが、キスまでさせてやるつもりはない。ぱっと浜田の腕の中から抜け出して、テーブルの側に座る。炊飯器から勝手にごはんをよそって、自分一人でいただきますをすると、浜田も慌ててやって来る。
ほかほかのごはんの上に卵と醤油を少し乗せて、一気にかき込む。ごはんは熱いが卵は冷たいので、絶妙な温度になる。このあと部活でたくさん運動するのだから、エネルギーがたくさんなければ上手に動けない。
心なしかしょんぼりした浜田が向かい側に腰を下ろす。手を合わせて行儀よくいただきますをする姿に変な哀愁が漂っていて、それが笑いを誘った。せっかくなのでもう少しだけサービスしてやろう。
「浜田」
「何?」
「おはよ」
白身魚の切り身をがっつきながら言ったのに、浜田はにへらと相好を崩した。
「おはよう、泉」
意趣返しのつもりなのか、それとも単純に腹が減っていたのか、はたまた照れ隠しなのかは知らないが、言うが早いか浜田も食事を始めた。はふはふとごはんを口に含んでいる姿を見たら何か安心したが、努めて顔に出さないようにした。コイツと一緒の朝が楽しいだなんて、死んでも口にしてやらない。
食事が終わった後の片付けは浜田にまかせっきりだ。ときどき「手伝えよー」とは言われるが、実力行使はされないので、手は貸さない。形骸化した言葉に意味はない。
食後に一杯水を飲んで、時間を確認すると、そろそろ家を出なければ間に合わない時間だった。
「おい浜田、時間ヤベーからもう行くぞ」
「あっ、ちょっと待って泉、もうちょっとで終わるからそれまで」
「遅刻したらオレがモモカンに頭握られんだよ。じゃーな。毎度サンキュ」
「いーずー……」
名前を呼ばれていたが無視して、浜田の家を飛び出す。自転車に飛び乗って、静かな
住宅街を颯爽と走り出す。ちょっと悪いことをしたかなとは思うが、いちいち構ってやるほど暇ではない。グラウンドで白球が待っている。
誰もいない道を自転車で疾走することほど気持ちいいことはない。ウォーミングアップも兼ねて力いっぱいペダルを漕いでいく。風を切って髪がぐちゃぐちゃになってしまうが、どうせ運動したら汚れてしまうんだし気にしない。日差しを浴びて起き出す町の中をどこまでも往く。
そうしている内に水谷や三橋といった比較的家が近い者たちと会い、今日も頑張ろうなと励まし合って部室まで行くと、自宅で着替えてきたらしい田島の出迎えを受けた。時計を見るとそろそろ遅刻するか否かのボーダーラインで、ばたばたとみんなやって来る。速攻で着替えて、全員でグラウンドに行く。
今日も練習が始まる。
朝練が終わって、教室に行くと、心なしかしょんぼりしたような浜田に出会った。
「ちょっとぐらい待ってくれてもいいじゃん」と拗ねたように言われたが、「はぁ?」と一蹴した。
もちろんわざとだ。
鈍く曇った思考に届けられるのは、鍋や食材を刻む音、それに加え炊きたてのごはんと焼ける魚の匂いなどといった、朝食の気配だ。意識とは関係なく体が勝手にそれらを拾っていく。
それからまもなく目覚まし時計が鳴る。枕元でけたたましいそれを拳で吹っ飛ばすと、ガシャンと何かにぶつかる音がした。モモカンの鉄拳制裁を脳裏に浮かべて眠りを求める体を叱咤して、なんとか起き上がる。
「泉! お前はいくつ時計を壊せば気がすむんだよ!」
「……ふぁあ」
浜田が文句を言いながら振り向いたが、それにはあくびしか返せなかった。まだ眠い。
浜田に借りたサイズが合わないパジャマの袖で顔を拭いてみたが、眠気は飛ばない。気を抜くと再び体が眠りに戻ってしまいそうだ。低血圧なので、早起きに体がついてこない。
時計を吹っ飛ばされたことに怒っていたはずの浜田が、振り向いたままの恰好で止まっている。窘めるような表情は消えて、かわりに緩みきった笑顔が張りついていた。朝から挙動不審な奴め。
「泉、顔洗っておいで。ぼんやりしてるとすぐ時間来ちゃうぞ」
「うっせー……言われなくてもわかってる……」
サイズの合わないパジャマの裾をずるずると引きずって、台所の流しで顔を洗う。顔を拭いたタオルからは太陽と洗剤の匂いがして、気持ち良かった。ようやく頭が覚醒してくる。
台所に面した窓からは光がたくさん差し込んでいて、電灯がいらないほど眩しかった。
「おー、今日もいい天気だな」
「暑くなるかもしれないから水分補給すんの忘れんなよ」
「はいはい」
恒例の注意に適当に返事をすると、朝食の準備を終えたらしい浜田が先程のままの笑顔で近寄ってくる。今日は天気も気持ちのいい快晴に加え、朝食のおかずも好物が多かったので、特別に抱きついてやる。見上げた浜田は本当に嬉しそうにしていて、ちょっとだけ胸が高鳴った。
人一倍いろいろなことを経験してきているくせに、笑った顔は子供のように無邪気で、そのギャップに引きつけられる。妙に気になって仕方ない。そんなことを考えながらじっと浜田の顔を見つけていると、後頭部に手が回された。
「調子乗ってんじゃねえよ」
今日の朝は確かに出血大サービスだが、キスまでさせてやるつもりはない。ぱっと浜田の腕の中から抜け出して、テーブルの側に座る。炊飯器から勝手にごはんをよそって、自分一人でいただきますをすると、浜田も慌ててやって来る。
ほかほかのごはんの上に卵と醤油を少し乗せて、一気にかき込む。ごはんは熱いが卵は冷たいので、絶妙な温度になる。このあと部活でたくさん運動するのだから、エネルギーがたくさんなければ上手に動けない。
心なしかしょんぼりした浜田が向かい側に腰を下ろす。手を合わせて行儀よくいただきますをする姿に変な哀愁が漂っていて、それが笑いを誘った。せっかくなのでもう少しだけサービスしてやろう。
「浜田」
「何?」
「おはよ」
白身魚の切り身をがっつきながら言ったのに、浜田はにへらと相好を崩した。
「おはよう、泉」
意趣返しのつもりなのか、それとも単純に腹が減っていたのか、はたまた照れ隠しなのかは知らないが、言うが早いか浜田も食事を始めた。はふはふとごはんを口に含んでいる姿を見たら何か安心したが、努めて顔に出さないようにした。コイツと一緒の朝が楽しいだなんて、死んでも口にしてやらない。
食事が終わった後の片付けは浜田にまかせっきりだ。ときどき「手伝えよー」とは言われるが、実力行使はされないので、手は貸さない。形骸化した言葉に意味はない。
食後に一杯水を飲んで、時間を確認すると、そろそろ家を出なければ間に合わない時間だった。
「おい浜田、時間ヤベーからもう行くぞ」
「あっ、ちょっと待って泉、もうちょっとで終わるからそれまで」
「遅刻したらオレがモモカンに頭握られんだよ。じゃーな。毎度サンキュ」
「いーずー……」
名前を呼ばれていたが無視して、浜田の家を飛び出す。自転車に飛び乗って、静かな
住宅街を颯爽と走り出す。ちょっと悪いことをしたかなとは思うが、いちいち構ってやるほど暇ではない。グラウンドで白球が待っている。
誰もいない道を自転車で疾走することほど気持ちいいことはない。ウォーミングアップも兼ねて力いっぱいペダルを漕いでいく。風を切って髪がぐちゃぐちゃになってしまうが、どうせ運動したら汚れてしまうんだし気にしない。日差しを浴びて起き出す町の中をどこまでも往く。
そうしている内に水谷や三橋といった比較的家が近い者たちと会い、今日も頑張ろうなと励まし合って部室まで行くと、自宅で着替えてきたらしい田島の出迎えを受けた。時計を見るとそろそろ遅刻するか否かのボーダーラインで、ばたばたとみんなやって来る。速攻で着替えて、全員でグラウンドに行く。
今日も練習が始まる。
朝練が終わって、教室に行くと、心なしかしょんぼりしたような浜田に出会った。
「ちょっとぐらい待ってくれてもいいじゃん」と拗ねたように言われたが、「はぁ?」と一蹴した。
もちろんわざとだ。