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願う先には

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日中はまだまだ茹だる様な暑さを誇る季節でも、夜ともなればこれまでの熱が一気に形を潜めたかの様に肌寒い。
 ぶるり、と一つ身を震わせたと同時、鼓膜を震わす甲高い機械音が耳を劈く。首だけを捻らせ、音のする方角へ胡乱な目を向ける。
 何時まで経っても鳴り止まないその音に溜息一つ零して、銀八は渋々重い腰を上げた。

「……で、一体何があったお前」




 軋む古びたドアを開けてみれば、眼前に佇むのは教え子である黒髪の少年だった。彼がこうしてこの家を訪れるのは、何も今日が初めてではない。
 だから、それは異質だった。
 否。それすらも別に何ら特筆すべきものではない。が、今日に限っては、それはとても異様なものに彼の目には映った。
 少年の左頬が、青いのを通り越して赤黒く変色しているのだ。腫れているのか、常にふっくらと丸みを帯びている頬が、今は更に膨らみ、歪な丸みを描いている。
 余りの痛々しさに呆れや驚きよりも憤りの方が勝り、キツく眉間に皺を寄せた。
 己の表情を見て困った様に笑う少年に、取り敢えず家に上がれと急かす様に促し、そのまま救急箱を取りに別の部屋へと足を向ける。
 何か問題を起こす様な生徒では無かった筈だ。ならば、何時、誰が、あんな傷を付けたのか。考えずとも答えはすんなりと出てきた。
 ―――あの阿呆が。
 どちらに向けられたか判らない、けれどもどちらにも向けられた言葉を胸中で吐きながら、銀八は引き戸の奥に仕舞われた箱を取り出した。
 大体、そこまでして来る必要などこれっぽっちもなかったのだ。
 彼はビニール袋をぶら下げていた。という事は、此処へ来る途中、店に寄ったという何よりの証だ。
 あの顔で店内に入るのはさぞかし勇気がいっただろう。
 確かに今日の来訪は彼が言い出した事ではある。けれども律儀過ぎるのも考えものだ。事情を話してくれれば、迎えに来るなり反故にするなり、何らかの対処をしただろうに。それで憤る程、自分は決して狭量では無いつもりだ。

「まあその気持ちは、正直嬉しいんだけどな」

 一人ごちたところでそれでもこの状況は頂けない。そもそもそんな躍起になる様な事柄でもない。
 同年代の子供らと比べて分別は有ると思っていたが、そういえば彼は思わぬ所で頑固だった事も今更ながら思い出す。
 銀八は先程と同じ様に深い溜息を一つ零すと、少年が待つであろう隣室へと向かった。


 カラリと襖を開けると、そこは蛻の空だった。
 訝しみながら救急箱を卓上に乗せると、ふわりと香る、何か。甘く漂うソレは、ココアやチョコレートといった類のものだろう。
 一体何を、と思ったその矢先、件の少年がひょっこり姿を現した。

「あ、先生。済みません、勝手に台所、借りちゃいました」

 くったくなく笑うその顔は、然し矢張り痛むのか、何処となくぎこちなく、歪んでいる。それを忌々しく思いながら、そして隠そうともせず目線だけで彼に座るように促す。
 明らかに機嫌の急下降した自分を困った様に、けれども優しく見詰めて、彼は大事なんです、と一言そう漏らした。
 誰に何を言われても、仮令それが本人であっても、これだけは譲れない。とても大事なんです。
 きっぱりと言い切るその強さに、苦々しい思いが募る。
 だから餓鬼は嫌なのだ。体当たりばかりでこちらの気持ちを汲もうともしない。
 確かにその直情さが気に入った。傷ついても尚立ち上がり、己の懐に入り込んで来るその真っ直ぐな心に絆され、陥落された。
 けれども好い加減、突き進む以外の方法を覚えてくれても良いのではなかろうか。
 不器用さでは引けを取らない自分が云っても説得力の欠片も無いが、けれども逆の立場を考えて欲しい。
 あんな顔で、目の前で、行き成り現れた時のこの気持ちを―――。

「先生?」

 黙り込んでしまった自分を不安げな視線で眺める少年に苦笑して、されど自分が若し彼の立場だった時の事を考えると、そう強くも出れないのが事実である。

「本当に、しょうもねぇなあ」

 小さく掠れた言葉は直ぐに空気に溶けてしまった。
 これ幸いと、銀八はそっと、出来得る限りの優しさを持ってそれに触れた。 
 痛がらない様にと配慮し、掠める程度に触れる指先を咎める様に少年の手が動き、銀八の右手を掴んだ。
 そのまま自らの頬に持っていき、そっと掌を当てる。
 痛くはないのかと問うた目に、然し少年は優しく笑むだけだった。

作品名:願う先には 作家名:真赭