願う先には
「…それ。飲んで下さい。しょうもない代物ですけど、誕生日、プレゼントです」
ふわりと浮いた雪の様なマシュマロが乗っているココアを指差しながら、済みません、と少年は眼を伏せた。
「本当は、もっと何かちゃんとしたものをあげたかったんですけど。――――その為に、バイトも増やして頑張ったんですけど、ね」
くしゃりと笑うその顔に、きしりと胸が痛む。
歪な笑顔は見ていて酷く痛々しい。
少しでもそれがやわらぐ様にと柄にも無く願いを込めて、その形の良い額に一つ、唇を落とす。そうして序でに、左手で腫れていない方の顔をゆるりと撫でた。
目を細めて気持ち良さそうに受け入れるその様子に満足して、銀八はほっと胸を撫で下ろした。
そうして漸く、彼の淹れてくれたココアへと手を伸ばす。
「ん。美味い」
素直に感想を述べると、目の前の少年は途端、安堵して気が緩んだのか、身体を弛緩させた。
その機を逃さず、動くなよ、と間髪入れずに言いながら、置いてあった救急箱を探る。そうして文句を言いたそうなその顔に、目線一つで黙らせて、目当ての物を取り出した。
「後でこれはちゃんと飲む。それよりも先ずはこっちだ。………姉ちゃんか?」
言葉に詰まり、苦虫を噛み潰したかの様な表情を見るに、それは当たりなのだろう。先程の会話と照らし合わせて考えてみれば、成程、これはそのバイト代の攻防戦の勲章か。
「バイトを増やした事を姉上は知ってて。だからその分返済に回すから寄こせと言って来たんですけど、僕が渋ったものだから…。一応理由も言ったんですけど、それが余計感に触ったらしくて」
「…………だろうな」
瞬時に脳内に描かれた人物に、身の毛もよだつ悪寒が背筋を這い上がった。
彼女はこの関係を好ましく思っていない。
それはそうだろうと思う。溺愛している弟が、こんな得体の知れぬ男に誑かされたとあっては、それは黙ってはいられないだろう。
彼女の気持ちは痛い程解る。解る、が、だからといってそう易々と手放すには、もういかないのだ。
「で、この有様か」
「…僕にしては、今回えらい頑張って応戦したんですけどね。やっぱ負けちゃいました」
そう言って項垂れる少年の頭に、銀八はそっと掌を乗せた。
今の彼には何を言っても無駄だろう。
気持ちだけでも嬉しいのだとか、この一杯のココアだけで充分だとか、寧ろもっと言えばそんな事をしなくても良いのだと。何もしなくても唯そこに居るだけで有難いのだと告げた所で、何一つ一切伝わらないのでは意味がない。
勿論、彼の気持ちは解らないでも無いのだ。逆ならばきっと自分もそうしただろうし、そう考えただろう。年に一度しかない大切な日ならば祝ってやろうとも思うし、その日を、生まれた事を、出会った僥倖を感謝するのは当然だと。
けれども自分はもう既にその位置には居ないのだ。それが彼と自分との、決定的な違いだろう。
確かにその気持ちは自分の中にもあるものなのだ。だが特別な何か、よりも普遍である日常を自分は何より望んでいる。故に、あまりこういった事に関心を持たないでいる。
そう思うと、矢張り自分はねじ曲がっていると痛感せざるを得ない。だからといって直す気などこれっぽっちも持ち合わせてはいないのだが。
そこまで思考を巡らせて、銀八は苦笑いを一つ零すと、目の前の漆黒をくしゃりと撫ぜた。
「あんま気にすんな。…でも、そうだな。お前がもしコレが気に喰わねぇってんなら、一つ、俺から提案があんだけど」
細心の注意を払って、出来るだけ平素と変わらぬ声音を作る。意外に彼は聡い。意識してそうしないと、気付かれる恐れがある。
そろそろと顔を上げ、訝しげに見上げてくるその目線ににやん、と笑い掛けると、銀八は情けない声で続きを吐いた。
「明日、姉ちゃんから逃げるの手伝ってくれ」
何の為にバイトを増やし、誰の為にその状態で此処まで来たのかが既にバレているのなら、きっと俺に明日は無い。
そう告げる十以上も年上の男にきょとんとした眼差しを返した後、少年は盛大に吹いた。
「良いですよ。全身全霊をもって、先生を助けます」
不器用な提案を、然し少年は笑って受け入れた。
それに酷く安堵し、そっと彼を抱き寄せる。
「ありがとな」
頭上に小さく零した言の葉は、果たして彼に聞こえただろうか。
聞こえて欲しいとも思うし、そうでなくても良いとも思う。
まだまだ発展途上の子供に、現状を伝えるのは酷だと解っていても、知って欲しいと身の内は燻り、けれどもその上で尚、彼だけはそのままであって欲しいと矛盾した思いが過る。
どうしようもない我儘だ。
苦笑を浮かべてその腕に力を込める。
じんわりとやわらかく浸透する熱に思考を奪われ、銀八はそっと目を閉じた。
end.