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幸せの小径

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「なんっだ、こりゃ」

 今回ばかりはそう言われるのも仕方が無いと思いつつも、新八はムッと眉を顰めた。
 私物化された準備室の窓には、ハンガーに吊るされた黒い、所々茶色く汚れた制服が風に乗って泳いでいる。
 室内に入って早々そんなものが目に入れば、呆気に取られるのも当たり前だろう。銀髪の男―――銀時は、石になったかの様にその場から動かず、暫らくの間制服から目を離せないでいた。
 そうして充分な時間が経った後、徐に視線を下に、ソファに座っている少年に向けると、新八はバツが悪そうに顔を背けた。

「制服ですよ。見れば分かるでしょう」
「いやいや、俺が言っているのは、そんな事じゃなくてね?」
「泥が付いたんで、乾かしてある程度落としてから、洗濯しようと思いまして」
「何で泥?」
「教室じゃ、あのクラスじゃ絶対返って余計に汚される――どころか下手すればもう着れなくなるでしょう?なので、一寸特権を利用してお借りしました」
「いやそれはそうだし、利用するのも別に良いんだけどね?だから何で泥?」

 よっこいしょ、と向かいのソファに腰掛ける銀時を目で追いながら、新八は少し俯き加減で続きを話した。

「………………自転車に、乗ってきたんです」
「は?」
「今日、自転車に乗って、登校したんです」

 はあ、と間抜けな顔をする銀時を見て、新八は益々居た堪れなくなった。別に醜態を曝している訳でもないのに、気恥ずかしい。
 新八はすうと一つ、息を大きく吸った。

「そしたら、前方に猫が居まして」
「うん」
「それには結構早目に気が付いてたんで、避けようと思ったんですが」
「うん」
「その猫が、子猫を引率してまして」
「………」
「流石にそうくるとは思わなくて。で、ぼちゃん、です」
「………ッ」
「…先生?」
「………っく、………ワリ、」
「……笑って下さって結構ですよ」

 途端、腹を抱えて笑い出した男を睨め付けながら、新八は自分の為に注いだ珈琲を一口、口に含んだ。
 だから言いたくなかったんだと、言外にそう言い含めるような視線を送れば、悪い、と応えが返る。
 そうして銀時は、ゆったりとした動作で足を組みながら、未だその余韻を引き摺るかの如く、ゆるりと笑った。

「まだ俺を乗せるのには、時間が掛かりそうだなあ」

 ひどく柔らかに響く声音に、ぎゅうと心臓が締め付けられる思いがして、新八は情けなくもそうですね、としか返す事が出来なかった。

「でも、先生」
「ん?」

 人の珈琲を勝手に拝借しておきながら、苦いとぼやく男の頭を叩きながら、新八は精一杯音を紡いだ。

「時間、掛かりますけど、いっぱい、掛かりますけど」
「うん」
「でも、絶対ちゃんと乗れる様になりますから。何が何でも、アンタを乗せれる様になりますから」

 だから、待っていて下さい。
 必死で放った言の葉は、無様にも掠れてしまって、風の音に掻き消されてしまったかもしれない。―――それでも、この男は拾ってくれるだろう。そう期待して確信して、じいと男の眼を真っ向から迎え打つ。
 ふわり、僅かに緩んだ瞳を確かに見て、新八は泣き笑いにも近い表情で微笑った。

「待ってるよ」

 そう紡いだ男の声は、矢張り風の音に消されて聞こえなかったが、けれども確かに胸を打つ言葉として、新八の心に響く。
 風に流されゆるりとはためく黒い服が、応えるように、一際大きくバサリと鳴った。


 ***

 よろよろと並木道を走る。
 停まって、降りて、向きを変える。跨って、そしてまたペダルを漕いで。
 振り返って自分が付けた軌跡を見てみれば、きっと歪んだ直線になっている事だろう。知らずゆるりと口元が弧を描いた。

 新八は、自転車が嫌いだった。
 人一倍不器用な自分は、人一倍練習しても、一向に乗れる兆しが見えなかった。
 それでもめげずに練習を重ねた結果、有り得ない事に、父親がなけなしのお金をはたいて買ってくれた自転車は、修復不可能な程ボロボロになってしまった。
 もう一度買ってくれとは流石に言えず、それに仮令買ってくれたとしても、絶対に次は乗れるとは限らない。汚れて拉げた自転車を、忌々しげに睨み付け、これの所為だと胸の内で罵った。
 そうして月日は流れて、再び手に入った赤い自転車。
またあんな惨めな思いをするのが嫌で、これを見る度そんな過去を思い出すのが恐ろしくて、彼の為だと嘯いて、銀髪の男に縋った。
 いとも容易く見破られた嘘は、しかし事情を知らない彼はその一切を聞かず、咎めもしなかった。
 そうして与えられた優しい大人の我侭を、身を焼く程の羞恥に苛まれながらも承諾したのは、矢張り何処かで諦めきれない自分が居たからかもしれない。
 何もかもあの銀髪の男にはお見通しなのだ。
 ならば虚勢を張るのも馬鹿らしい。それに、男は待つと言ってくれた。いつまでも待っていると。
 その一言があれば、今の自分は大丈夫だと感じた。


 きゅ、とブレーキを掛けて停まる。赤信号。此処でも、一旦降りる。片足で踏ん張るなんて事も、現時点では難しい。
 歩行者信号が青に変わり、急いで自転車に跨る。
 ゆらゆらと揺らぎながらも走る自転車に、人の方が避けて通っていくのを、如何ともし難い思いで進む。

 例えばこの後ろに、誰かを乗せる事が出来たのなら。
今よりも、昔よりも少しは、この背中は逞しくなっているだろうか。
 例えばあの男をこの後ろに乗せたのなら。
 頼りないこの小さな背中が、男が思い描いていたものよりも力強かったら良いなと思う。屈折した卑屈な感情を、唯やわらかく包み込んでくれた、あの男の様になれたらいい。そうなるには、まだまだ長い時間を要するだろうけれども。
 しかしそれは、きっと実現可能な夢だろう。
 確信めいた笑みを浮かべ、果ての無い想いを描きながら、新八はひたすらペダルを漕いだ。


end.
作品名:幸せの小径 作家名:真赭