桃菊log
悩んだ末、多少の情けなさを伴いながらも桃城は菊丸の前に居た。本人に直接聞いた方が早いと思ったからだ。
さて一体何が飛び出すだろうとどきどきしていた桃城の耳に飛び込んだのは、俄かに信じ難い言の葉の群れだった。
「あれ、食べたい」
そう言って菊丸の示す方向を見てみると、粉ものが置いてある棚が並んでいる。それはよくよく見ると、ホットケーキミックス、の粉だった。
本気かと隣を窺い見ると、どうやら彼は本当にそのつもりで言ったらしい。
桃城は愕然とした。それから泣きたくなった。何の為に早朝から頑張ってきたのかと、プレゼントをあげるのにも困る位、そんなに金を持ってない様に見えたのかと、そう罵りたくなった。これでは余りにも報われない。
「桃、分かるか?アレ、だぞ」
桃城の意識をこちらに呼び戻す様に声が響いた。はっとなって顔を上げれば、こちらをじぃと見詰める瞳とかち合い、その瞳の強さに思わずたじろいだ。
「これ、この袋に載ってる写真みたいなの作れ。解るか?ぺしゃんこなのはNGな。これみたくふっくらしたやつ。三枚重ねて当日俺の目の前で作れ」
誕生日ケーキ、な。それがプレゼントで良い。
そう言って目の前の恋人は柔らかく笑い掛ける。なるほどそういう事かと菊丸の云わんとする事が解って、桃城はこくりと頷く。彼は単細胞の馬鹿だが決して察しの悪い男では無かった。
そうして本人の口から直接要望を聞いた桃城はバイト代を全額注ぎ込み、当日までひたすらホットケーキを焼き続けた。これが意外と難しく、彼が言った通り写真の様には中々出来ない。バイト代を注ぎ込む羽目になったのは、偏にその所為もある。
平たく膨らみのない生地を持て余し、クラスメイトや部活にまで差し入れと称して持って行ったりもした。最初こそ妹弟を筆頭に家族に分け与えていたが、ほぼ毎日に及ぶ大量のホットケーキの攻撃に、好い加減うんざりだと面と向かって言われてしまったのだ。
そこで今度は隣近所に配って回ったのだが、流石に赤の他人に毎日配って回る訳にもいかない。言い方は悪いがクラスメイトや部活仲間は格好の処分場所だった。なんせ彼らは常に腹を空かせている。ホットケーキばかりを持って来るのを疑問にも思わず、寧ろ自ら足しになるものは無いのかと強請ってくるのだ。お陰で桃城は思う存分練習する事が出来た。
その事を電話で話すと、菊丸は実に可笑しそうに、そして何処か嬉しそうに相槌を返してくれた。そうして上達したか、と聞いてきた。桃城はそれなりに、と答えた。そうか、と返事が返ってきて、そこでその日の電話は終わった。
菊丸の誕生日まで後三日。桃城は益々意気込んだ。こうなったら完璧に仕上げて吃驚させてやろうと思ったのだ。そして喜ぶ顔を間近で見たいとも思った。
―――彼は思い出が欲しいと言ったのだ。
直にそう言われた訳では無いが、菊丸の纏う雰囲気がそう告げていた。それは桃城の何か記念に残るものを、という考えとは真逆の方向を向いていたが、そもそもプレゼントというのは相手が喜んでなんぼというものなので、桃城はそれを快諾した。自分はそうであっても、他の人間が必ずしもそうとは限らない。それはいつぞやの女が「愛は金じゃない」と言っていた言葉と通ずるものがある。若しかしたら菊丸はそういう考えの持ち主なのかもしれない。どちらでも良かった。彼が喜ぶのならば。
「来年もバイト、しようかな」
無意識にぽつりと呟いた言葉にはっとなる。我ながら名案だと思ったのだ。
記念に思い出が欲しいと言った彼に、ならば一年後の未来にはどんな記憶をあげようか。今回みたく何か作っても良いし、少し遠出して日帰り旅行的なものも楽しいかもしれない。きっと鮮やかに色褪せる事なく残るだろう。
そう思うと自然、口角が上がる。成程こういう祝い方もあるのかと、桃城は鼻歌交じりにボウルに入った粉を混ぜ始めた。
タイムリミットまで、後一日を切っていた。
end.