夜明け前に咲く花
「こういう天気のいい日に高い所へ行くと死にたくなる人ってのが一定数いるみたいだけど、帝人君はどうだい?」
薄い雲がまばらに広がる空の下で、臨也さんは僕にそう訊ねてきた。
その日、僕は臨也さんに携帯電話で呼び出され、誰にも使われる事のなくなったビルの屋上にいた。
ビルは廃れていて、雨ざらしになり忘れ去られ、コンクリートは排気ガスの汚れがつき、その上を流れるように雨の跡が残っていた。そんな退廃的な雰囲気の中でも春先の陽光は平和的に暖かく、けれども時折吹く風にはまだ少し冷たさが残っていたのをよく覚えている。
僕は、ぐるりと屋上を取り囲むように付けられた転倒防止用の柵にもたれて、春の陽ざしを目一杯浴びながら、彼の言葉を聞いてきた。
掴んでいた柵は赤錆で覆われていて、ざりざりとした感触が手の中に広がる。
屋上から地面を見つめていた顔を、空へと向ける。どこまでも広がる青い空には、柔らかそうな雲が浮かんでいた。それを見て、特に何を思う事もない。今まで、田舎で嫌と言うほど見てきた透き通るほどの快晴は、感動的と言うには見飽きていたし、かといって臨也さんの言っている人たちのように、死にたくほどなるものでもなかった。
春の陽ざしはただただ穏やかで、眠気を誘う。柵を掴んでいた手を離し、柵の上で腕を組む。
組んだ腕に顎を乗せながら、「どうなんでしょうねー」と、僕は間延びした声で呟いた。
顔をずらして横を見れば、僕の隣で柵に背を持たれ掛けさせていた臨也さんも、僕と同じように空を見ていた。柵から飛び出た臨也さんの頭から、重力に従って黒い髪の毛が垂れている。
「そっかー」と息を吐くように臨也さんが言葉を紡ぐたび、白い喉仏が上下に揺れた。
「帝人君」空を見上げたまま、臨也さんは呟く。「君は俺を忘れるかい?」
少し離れたところで、バイクのエンジン音が近づき遠のいてゆくのを聞きながら、僕は組んでいた腕に目を押しつけながら瞼を閉じた。
ちかちかとした光が、瞼の裏で点滅する。
「分かりません」と、僕は言った。「忘れなくても、そのうち薄くはなるかもしれないです」
臨也さんはまた、「そっかー」と呟く。それに続いて、僕も「そうですねぇ」と返す。
「君に忘れられないためには、どうすればいいだろうね」
「……僕には、分かりません」
閉じていた目を開き、応える。
まだ冷たさを残している風が吹いて、僕の頬を撫ぜた。
風に乗って、じめついたカビくさい臭いが鼻を掠める。
「好きだよ、帝人君」
脈絡なくそう言われ、僕は横目で臨也さんを見やった。
臨也さんの垂れた髪が風に吹かれて舞い上がっている。
舞い上がる髪の隙間から見える、赤褐色の瞳と、目があった。
どうせまた、暇つぶしに僕を付き合わせようとしているのだろうと思い、「臨也さんの冗談にしては、あんまりおもしろくないですね」と言って、視線を前へ戻す。
少し離れた場所にあるビルを眺めると、屋上に設置された水色の給水タンクに、一羽のカラスがとまっていた。
隣で、「確かに、ちょっとつまんなかったかもねぇ……」と臨也さんが呟いた。
給水タンクの上にとまっていたカラスが羽を広げ、ゆっくりと空へ飛んでいくのを、僕は見つめた。
春の陽ざしはただただ穏やかで、抑揚なく平和的で、その時の僕には、これが永遠に続いてゆくのではないかとすら思えた。
けれどそれから二日後――相変わらず嫌になるほど穏やかな快晴が広がる春の日、臨也さんが死んだ。場所は、僕と臨也さんが最後に会った廃ビルで、屋上からの転落死だったらしい。
他殺とも、自殺とも、様々な噂が飛び交ったが、事実は結局分からないままだ。
臨也さんの葬儀が行われたのかも、僕は知らない。僕が知っているのは、ダラーズの掲示板内や街で飛び交う噂話や、その延長線だけだ。臨也さんと話す事は、たまにあった。それでも、僕と臨也さんの関係には、僕が思っているよりも距離があった事を、そうなってから初めて実感した。
○
取引を終えて、まだ夜が明ける前の静かな街を歩く。
座りぱなしだったせいで痛む腰を少し捻れば、ぱきぱきと骨が軋む音がした。
夜明け前の空気は、静かで、冷えている。
今日は、臨也さんが死んだ日だ。あの日、最後に臨也さんと会った日から、僕はあの廃ビルへは行っていない。けれど、もうあの日から三年たった。”情報屋”としても、すこしはまともになってきた今ならば、もう一度、あの場所へ行けるかもしれないと思い、僕は足早に思い出の場所へと向かった。
錆びついた扉を体を使って押し開けると、酷い音を立てながら扉が開く。
扉の向こうは、廃れたビルには似会わないほど沢山の花が添えられていて、屋上には一人、女の子が立っていた。扉が開く音に気がついた少女は、こちらを振り返り、持っていた花をそっと捧げ、僕に軽く会釈をした後、屋上を後にした。
入れ替わりになるように、今度は僕が柵のもとへと近づく。
彼には沢山の信者がいたらしいから、おそらくこれらはすべてそういった人たちが供えていったものなのだろう。どれもまだ真新しく、みずみずしさが残っているものばかりだ。
赤、青、黄色、白、ピンク。様々な花が、廃れた屋上を彩っている。
どれも名前は分からないけれど、きれいな花だと思った。
ここへ来る途中に、自販機で買った缶コーヒーをひとつ、供えられた花の隣へと置く。
立ち上がり、あの日と同じ場所の柵に体を預けながら、僕は残ったもう一つの缶コーヒーを開けた。かしゅっとプルタブが折れる音がして、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
握った缶から白い湯気があがるのを見つめてから、僕は一口それを飲み込んだ。
冷えた指先に、缶から伝わる温かさが沁みる。
息を吐きながら、前を見る。遠くで、まだ暗い街をネオンの光が明るく照らしているのが、ここからはよく見える。
○
臨也さんが死んだ一週間後、僕の郵便ポストに一枚の手紙が届いた。
差出人は臨也さんで、僕はハサミも使わずにその手紙の封を破り開けた。
中には小さなUSBと一枚の便せんが入っていた。便せんには数字の羅列が書いてあるだけで、他には、もう何も書いていなかった。
学校から帰って来たばかりの僕は、鞄を下ろす事も忘れてパソコンの電源を付け、手紙に入っていたUSBを挿しこんだ。射し込んですぐに、画面にパスワードを入力する画面が現れた。もつれる指先で、便せんに書かれていた数字を打ち込む。エンターキーを押すとパスワードは正しく認証されたらしく、次々とフォルダが展開された。
展開されてゆくフォルダに付けられた名前を見て、僕は唖然とした。粟楠会、明日機組、一般人である僕ですら名前を知っている大企業の重役の名前が、そこには並んでいた。これが臨也さんの顧客リストだと気がつくのに、そう時間は要さなかった。
膨大な数のフォルダが並ぶ中、一つのテキストファイルだけが、フォルダにまとめられることなく保存されていた。それをダブルクリックして開く。
開かれたテキストファイルに書かれていたのは、臨也さんからの手紙だった。
薄い雲がまばらに広がる空の下で、臨也さんは僕にそう訊ねてきた。
その日、僕は臨也さんに携帯電話で呼び出され、誰にも使われる事のなくなったビルの屋上にいた。
ビルは廃れていて、雨ざらしになり忘れ去られ、コンクリートは排気ガスの汚れがつき、その上を流れるように雨の跡が残っていた。そんな退廃的な雰囲気の中でも春先の陽光は平和的に暖かく、けれども時折吹く風にはまだ少し冷たさが残っていたのをよく覚えている。
僕は、ぐるりと屋上を取り囲むように付けられた転倒防止用の柵にもたれて、春の陽ざしを目一杯浴びながら、彼の言葉を聞いてきた。
掴んでいた柵は赤錆で覆われていて、ざりざりとした感触が手の中に広がる。
屋上から地面を見つめていた顔を、空へと向ける。どこまでも広がる青い空には、柔らかそうな雲が浮かんでいた。それを見て、特に何を思う事もない。今まで、田舎で嫌と言うほど見てきた透き通るほどの快晴は、感動的と言うには見飽きていたし、かといって臨也さんの言っている人たちのように、死にたくほどなるものでもなかった。
春の陽ざしはただただ穏やかで、眠気を誘う。柵を掴んでいた手を離し、柵の上で腕を組む。
組んだ腕に顎を乗せながら、「どうなんでしょうねー」と、僕は間延びした声で呟いた。
顔をずらして横を見れば、僕の隣で柵に背を持たれ掛けさせていた臨也さんも、僕と同じように空を見ていた。柵から飛び出た臨也さんの頭から、重力に従って黒い髪の毛が垂れている。
「そっかー」と息を吐くように臨也さんが言葉を紡ぐたび、白い喉仏が上下に揺れた。
「帝人君」空を見上げたまま、臨也さんは呟く。「君は俺を忘れるかい?」
少し離れたところで、バイクのエンジン音が近づき遠のいてゆくのを聞きながら、僕は組んでいた腕に目を押しつけながら瞼を閉じた。
ちかちかとした光が、瞼の裏で点滅する。
「分かりません」と、僕は言った。「忘れなくても、そのうち薄くはなるかもしれないです」
臨也さんはまた、「そっかー」と呟く。それに続いて、僕も「そうですねぇ」と返す。
「君に忘れられないためには、どうすればいいだろうね」
「……僕には、分かりません」
閉じていた目を開き、応える。
まだ冷たさを残している風が吹いて、僕の頬を撫ぜた。
風に乗って、じめついたカビくさい臭いが鼻を掠める。
「好きだよ、帝人君」
脈絡なくそう言われ、僕は横目で臨也さんを見やった。
臨也さんの垂れた髪が風に吹かれて舞い上がっている。
舞い上がる髪の隙間から見える、赤褐色の瞳と、目があった。
どうせまた、暇つぶしに僕を付き合わせようとしているのだろうと思い、「臨也さんの冗談にしては、あんまりおもしろくないですね」と言って、視線を前へ戻す。
少し離れた場所にあるビルを眺めると、屋上に設置された水色の給水タンクに、一羽のカラスがとまっていた。
隣で、「確かに、ちょっとつまんなかったかもねぇ……」と臨也さんが呟いた。
給水タンクの上にとまっていたカラスが羽を広げ、ゆっくりと空へ飛んでいくのを、僕は見つめた。
春の陽ざしはただただ穏やかで、抑揚なく平和的で、その時の僕には、これが永遠に続いてゆくのではないかとすら思えた。
けれどそれから二日後――相変わらず嫌になるほど穏やかな快晴が広がる春の日、臨也さんが死んだ。場所は、僕と臨也さんが最後に会った廃ビルで、屋上からの転落死だったらしい。
他殺とも、自殺とも、様々な噂が飛び交ったが、事実は結局分からないままだ。
臨也さんの葬儀が行われたのかも、僕は知らない。僕が知っているのは、ダラーズの掲示板内や街で飛び交う噂話や、その延長線だけだ。臨也さんと話す事は、たまにあった。それでも、僕と臨也さんの関係には、僕が思っているよりも距離があった事を、そうなってから初めて実感した。
○
取引を終えて、まだ夜が明ける前の静かな街を歩く。
座りぱなしだったせいで痛む腰を少し捻れば、ぱきぱきと骨が軋む音がした。
夜明け前の空気は、静かで、冷えている。
今日は、臨也さんが死んだ日だ。あの日、最後に臨也さんと会った日から、僕はあの廃ビルへは行っていない。けれど、もうあの日から三年たった。”情報屋”としても、すこしはまともになってきた今ならば、もう一度、あの場所へ行けるかもしれないと思い、僕は足早に思い出の場所へと向かった。
錆びついた扉を体を使って押し開けると、酷い音を立てながら扉が開く。
扉の向こうは、廃れたビルには似会わないほど沢山の花が添えられていて、屋上には一人、女の子が立っていた。扉が開く音に気がついた少女は、こちらを振り返り、持っていた花をそっと捧げ、僕に軽く会釈をした後、屋上を後にした。
入れ替わりになるように、今度は僕が柵のもとへと近づく。
彼には沢山の信者がいたらしいから、おそらくこれらはすべてそういった人たちが供えていったものなのだろう。どれもまだ真新しく、みずみずしさが残っているものばかりだ。
赤、青、黄色、白、ピンク。様々な花が、廃れた屋上を彩っている。
どれも名前は分からないけれど、きれいな花だと思った。
ここへ来る途中に、自販機で買った缶コーヒーをひとつ、供えられた花の隣へと置く。
立ち上がり、あの日と同じ場所の柵に体を預けながら、僕は残ったもう一つの缶コーヒーを開けた。かしゅっとプルタブが折れる音がして、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
握った缶から白い湯気があがるのを見つめてから、僕は一口それを飲み込んだ。
冷えた指先に、缶から伝わる温かさが沁みる。
息を吐きながら、前を見る。遠くで、まだ暗い街をネオンの光が明るく照らしているのが、ここからはよく見える。
○
臨也さんが死んだ一週間後、僕の郵便ポストに一枚の手紙が届いた。
差出人は臨也さんで、僕はハサミも使わずにその手紙の封を破り開けた。
中には小さなUSBと一枚の便せんが入っていた。便せんには数字の羅列が書いてあるだけで、他には、もう何も書いていなかった。
学校から帰って来たばかりの僕は、鞄を下ろす事も忘れてパソコンの電源を付け、手紙に入っていたUSBを挿しこんだ。射し込んですぐに、画面にパスワードを入力する画面が現れた。もつれる指先で、便せんに書かれていた数字を打ち込む。エンターキーを押すとパスワードは正しく認証されたらしく、次々とフォルダが展開された。
展開されてゆくフォルダに付けられた名前を見て、僕は唖然とした。粟楠会、明日機組、一般人である僕ですら名前を知っている大企業の重役の名前が、そこには並んでいた。これが臨也さんの顧客リストだと気がつくのに、そう時間は要さなかった。
膨大な数のフォルダが並ぶ中、一つのテキストファイルだけが、フォルダにまとめられることなく保存されていた。それをダブルクリックして開く。
開かれたテキストファイルに書かれていたのは、臨也さんからの手紙だった。