A stór mo chroí
この時間に見るはずの無いものが見えた気がして、思わず窓に近寄る。柔らかい、赤茶の巻き毛。向こうから忙しない足音と共に近づいてきたソレが、目の前を通り過ぎるタイミングでドアを開け、片腕を強く引いて飛び込んできた身体を受け止めた。
「お前…ッ!?」
片手でわめこうとした口を閉じ、もう片方でドアを閉める。コイツが授業中に鬼ごっこなんざやるはめになった元凶──金髪碧眼の数学教師が大きすぎる独り言と共に歩き去ったのを確認して、もがくニールを解放した。ここは誰にも見つかってねェ昼寝場所だったんだが、しょうがない。誰も知らない寝場所はまだあるし、コイツしか知らないってのは悪くねぇ。
「で?センセーは何やってんだよ?」
「何ってグラハムが…じゃない、お前こそ何やってるんだよハレルヤ!授業中だろ!?」
「……自習だ自習」
「自主的な自習はサボりって言うんだ、ったく」
いつもそうだが、ニールはこんな時に教師面でいかにもな説教をしない。新米ってのもあるだろうが(今年で23のニールは2年目のぺーぺーだ)、もともとの性格なんだろう。新米だろうと何だろうと、要らぬ正義感に溢れてごちゃごちゃ五月蝿い輩は必ずいるもんだ。
生徒会室横の資料室は、教室に比べると半分ぐらいの広さしかない。ニールは部屋の中央から窓の向こうを伺って、ようやく腰を下ろした。長机を挟んだ椅子にオレが座ると、目の前の巻き毛はがくっと机に突っ伏す。何だ、わざとらしいなオイ。
「俺さぁ、身長180はあるんだぜ?」
「みてーだな」
「童顔ってわけでもねーし、女顔ってわけでもねーよな?」
「……じゃ、ねーの?」
何が始まったのか。ニールは机に伏せた顔を少し傾け、横向きのまま、ぶつぶつとおかしなことを言っている。
「そこそこ筋肉だってついてるし、どっからどう見たって女の子には見えないよな?」
「……だから、何だよ」
乳を足して身長を少し低くすれば女に見えなくもない、と言おうとしたが止めた。だから、とニールは唐突に勢い良く顔を上げる。
「俺は何で男の同僚に追い掛け回される羽目になってんだよッ!?」
「オレが知るか」
「だよなー……」
がく、と首が傾いてそのままずるずると机に伏してしまった。変態数学教師(アレルヤが言うには授業や部活では『普通に熱心な良い先生』らしいが、校内で年下男のケツ追っかけ回すヤツなんぞ変態だ)に姫だの何だのおかしなあだ名をつけられ、事あるごとに追いかけられて迫られていたのが限界に来たらしい。よくここまで持ったな。オレらが入学するとほぼ同時だと言っていたから、もうすぐ二年だ。
「そもそもアリーが悪いんだ、あいつがいつもみたいにからかってきて、適当にあしらおうとしたらグラハムが聞きつけて来ちまって……」
「それで鬼ごっこか。暇だなセンセー」
「暇なわけないだろ!……手をつけなきゃいけない資料がいっぱいあるってのに。何だよ?」
オレが頬杖ついて笑ってるのに気づいたらしい、ニールは不満そうな表情でこちらを見上げた。
「いや?別に、大したことじゃねーよ。お前が男にしかモテてねーなとか思ってねーし」
「もう言ってるっての。学生時代は普通だったと思うんだけどな、何でこうなってんだか……」
アリーとグラハムだけじゃない、生徒にも数名ニールを追いかけてるヤツはいる。ニール自身は『生徒が懐いてくれた』などと都合良く解釈してるらしく、まるで気づいていないようだ。1年のチビも、3年のティエリアとかいう眼鏡も、よくニールの周りで見かける。ただ、こんな風にニールが砕けて見せる相手はさほどいないだろうと知れた。この男は社交的に見せかけていて、その実、パーソナルスペースがやたら広い。
「おっさんは100%からかって遊んでるだけだろ、あの変態は知らねーけど」
「敬えとは言わないから、せめて名前で呼べよ。一応教師なんだからな」
「勤務中に同僚のケツ追っかけ回す変態でも、まあ確かに教免は持ってるよな」
言い返すとダメージを食らったのか、ニールはまたずるずると机に伏してしまう。
「ハレルヤ、お前アリーと仲良いんだろ、何とか止めさせてくれよ。俺がいくら言っても、あいつまるで気にしねーもん。余計にからかわれる」
「馬鹿だなアンタ、止めてくれなんておっさんに直談判したらそりゃ…面白がって悪化するに決まってんだろ。アイツは愉快犯の確信犯、言うだけ無駄だ」
おっさん──アリー・アル・サーシェスは突っ立ってるだけで職質受けるような、見るからに得体の知れねえおっさんだ。が、物理教師で柔道部の顧問っつー、詐欺としか思えない肩書きがある。オレが部活なんて面倒くせえものに入る羽目になったのも、半分はこのおっさんのせいだった。残りは馬鹿2TOPの片割れ、ミハエルのせいだが。
「それを言った後で気づいたんだよ、なんだってあの人は俺で遊ぶの止めないのかね。他にもいるだろーに」
「さあ?」
確かにニールが言うように、アリーがからかって遊ぶ対象は他にもいる。馬鹿2TOPがその筆頭で、ミハエルとコーラサワーはもはやアリーのオモチャとしか言いようが無い。ニールの周りをうろちょろすることの多い1年もどうやらターゲットらしく、思い出したようにオレまでその範疇に入れようとするのがすげェうぜえ。
アリーは自分の仕掛けに引っ掛からない相手にそこまで執着しない。上手くいけば面白いからとりあえずやってみる、という緩いスタンスなので多少ウザくても大して気にはならないが(それさえ無ければ話が分かる面白いオッサンだ)、物理的に追い掛け回されるとなると、そうはいかない。
「アリーはまだいいんだよ……アイツのはからかってるだけっつうか、タチ悪ぃけど平気なほうっていうか」
グラハムがなぁ……とぼやく声を聞きながら、立ち上がった。ニールはさして気にせずに、続けている。
「たまにどうしていいか分かんなくなるんだよな…。お姫様なんてのはディズニーの中だけで十分、ってハレルヤ?」
「お前はものすげえ寛容なのか、単に馬鹿なのか、オレにもよく分からねえなァ。あんだけされといて、でも嫌いじゃねーんだろ?」
真横に腰掛けて、顔を近づけた。互いの距離を測るように押し黙ったニールだったが、小さなため息と共に頷いて沈黙を断ち切る。緩くカールしている巻き毛が、すぐ目の前、手を伸ばせば届く位置にあった。
「……そりゃそうだろ、別にイジメだ何だってのじゃねーんだぜ?方法と方向性がおかしいだけで、好意というかそういうものには違いないわけだし……」
「好意、ね」
他の生徒たちが寄せるような憧憬や敬愛などではない、下心込みの好意とある程度分かっていながら拒絶も返答もしない。しないというより、出来ない。そんな、コイツのずるくてどうしようもない部分がオレは嫌いじゃなかった。女どもが噂する、『カッコ良くて楽しいディランディ先生』などではない、姿が。
「グラハムだって悪いヤツじゃないし、嫌なヤツなんかじゃないし。ああいうのさえ無かったら、ちょっと尊敬するとこだってある良い教師だと思うんだけどよ」
「……やっぱお前、馬鹿決定な」
これはもうお人よしとか、善人とか、そういうレベルじゃねえだろ。馬鹿だろ。
「はぁ!?」
「お前…ッ!?」
片手でわめこうとした口を閉じ、もう片方でドアを閉める。コイツが授業中に鬼ごっこなんざやるはめになった元凶──金髪碧眼の数学教師が大きすぎる独り言と共に歩き去ったのを確認して、もがくニールを解放した。ここは誰にも見つかってねェ昼寝場所だったんだが、しょうがない。誰も知らない寝場所はまだあるし、コイツしか知らないってのは悪くねぇ。
「で?センセーは何やってんだよ?」
「何ってグラハムが…じゃない、お前こそ何やってるんだよハレルヤ!授業中だろ!?」
「……自習だ自習」
「自主的な自習はサボりって言うんだ、ったく」
いつもそうだが、ニールはこんな時に教師面でいかにもな説教をしない。新米ってのもあるだろうが(今年で23のニールは2年目のぺーぺーだ)、もともとの性格なんだろう。新米だろうと何だろうと、要らぬ正義感に溢れてごちゃごちゃ五月蝿い輩は必ずいるもんだ。
生徒会室横の資料室は、教室に比べると半分ぐらいの広さしかない。ニールは部屋の中央から窓の向こうを伺って、ようやく腰を下ろした。長机を挟んだ椅子にオレが座ると、目の前の巻き毛はがくっと机に突っ伏す。何だ、わざとらしいなオイ。
「俺さぁ、身長180はあるんだぜ?」
「みてーだな」
「童顔ってわけでもねーし、女顔ってわけでもねーよな?」
「……じゃ、ねーの?」
何が始まったのか。ニールは机に伏せた顔を少し傾け、横向きのまま、ぶつぶつとおかしなことを言っている。
「そこそこ筋肉だってついてるし、どっからどう見たって女の子には見えないよな?」
「……だから、何だよ」
乳を足して身長を少し低くすれば女に見えなくもない、と言おうとしたが止めた。だから、とニールは唐突に勢い良く顔を上げる。
「俺は何で男の同僚に追い掛け回される羽目になってんだよッ!?」
「オレが知るか」
「だよなー……」
がく、と首が傾いてそのままずるずると机に伏してしまった。変態数学教師(アレルヤが言うには授業や部活では『普通に熱心な良い先生』らしいが、校内で年下男のケツ追っかけ回すヤツなんぞ変態だ)に姫だの何だのおかしなあだ名をつけられ、事あるごとに追いかけられて迫られていたのが限界に来たらしい。よくここまで持ったな。オレらが入学するとほぼ同時だと言っていたから、もうすぐ二年だ。
「そもそもアリーが悪いんだ、あいつがいつもみたいにからかってきて、適当にあしらおうとしたらグラハムが聞きつけて来ちまって……」
「それで鬼ごっこか。暇だなセンセー」
「暇なわけないだろ!……手をつけなきゃいけない資料がいっぱいあるってのに。何だよ?」
オレが頬杖ついて笑ってるのに気づいたらしい、ニールは不満そうな表情でこちらを見上げた。
「いや?別に、大したことじゃねーよ。お前が男にしかモテてねーなとか思ってねーし」
「もう言ってるっての。学生時代は普通だったと思うんだけどな、何でこうなってんだか……」
アリーとグラハムだけじゃない、生徒にも数名ニールを追いかけてるヤツはいる。ニール自身は『生徒が懐いてくれた』などと都合良く解釈してるらしく、まるで気づいていないようだ。1年のチビも、3年のティエリアとかいう眼鏡も、よくニールの周りで見かける。ただ、こんな風にニールが砕けて見せる相手はさほどいないだろうと知れた。この男は社交的に見せかけていて、その実、パーソナルスペースがやたら広い。
「おっさんは100%からかって遊んでるだけだろ、あの変態は知らねーけど」
「敬えとは言わないから、せめて名前で呼べよ。一応教師なんだからな」
「勤務中に同僚のケツ追っかけ回す変態でも、まあ確かに教免は持ってるよな」
言い返すとダメージを食らったのか、ニールはまたずるずると机に伏してしまう。
「ハレルヤ、お前アリーと仲良いんだろ、何とか止めさせてくれよ。俺がいくら言っても、あいつまるで気にしねーもん。余計にからかわれる」
「馬鹿だなアンタ、止めてくれなんておっさんに直談判したらそりゃ…面白がって悪化するに決まってんだろ。アイツは愉快犯の確信犯、言うだけ無駄だ」
おっさん──アリー・アル・サーシェスは突っ立ってるだけで職質受けるような、見るからに得体の知れねえおっさんだ。が、物理教師で柔道部の顧問っつー、詐欺としか思えない肩書きがある。オレが部活なんて面倒くせえものに入る羽目になったのも、半分はこのおっさんのせいだった。残りは馬鹿2TOPの片割れ、ミハエルのせいだが。
「それを言った後で気づいたんだよ、なんだってあの人は俺で遊ぶの止めないのかね。他にもいるだろーに」
「さあ?」
確かにニールが言うように、アリーがからかって遊ぶ対象は他にもいる。馬鹿2TOPがその筆頭で、ミハエルとコーラサワーはもはやアリーのオモチャとしか言いようが無い。ニールの周りをうろちょろすることの多い1年もどうやらターゲットらしく、思い出したようにオレまでその範疇に入れようとするのがすげェうぜえ。
アリーは自分の仕掛けに引っ掛からない相手にそこまで執着しない。上手くいけば面白いからとりあえずやってみる、という緩いスタンスなので多少ウザくても大して気にはならないが(それさえ無ければ話が分かる面白いオッサンだ)、物理的に追い掛け回されるとなると、そうはいかない。
「アリーはまだいいんだよ……アイツのはからかってるだけっつうか、タチ悪ぃけど平気なほうっていうか」
グラハムがなぁ……とぼやく声を聞きながら、立ち上がった。ニールはさして気にせずに、続けている。
「たまにどうしていいか分かんなくなるんだよな…。お姫様なんてのはディズニーの中だけで十分、ってハレルヤ?」
「お前はものすげえ寛容なのか、単に馬鹿なのか、オレにもよく分からねえなァ。あんだけされといて、でも嫌いじゃねーんだろ?」
真横に腰掛けて、顔を近づけた。互いの距離を測るように押し黙ったニールだったが、小さなため息と共に頷いて沈黙を断ち切る。緩くカールしている巻き毛が、すぐ目の前、手を伸ばせば届く位置にあった。
「……そりゃそうだろ、別にイジメだ何だってのじゃねーんだぜ?方法と方向性がおかしいだけで、好意というかそういうものには違いないわけだし……」
「好意、ね」
他の生徒たちが寄せるような憧憬や敬愛などではない、下心込みの好意とある程度分かっていながら拒絶も返答もしない。しないというより、出来ない。そんな、コイツのずるくてどうしようもない部分がオレは嫌いじゃなかった。女どもが噂する、『カッコ良くて楽しいディランディ先生』などではない、姿が。
「グラハムだって悪いヤツじゃないし、嫌なヤツなんかじゃないし。ああいうのさえ無かったら、ちょっと尊敬するとこだってある良い教師だと思うんだけどよ」
「……やっぱお前、馬鹿決定な」
これはもうお人よしとか、善人とか、そういうレベルじゃねえだろ。馬鹿だろ。
「はぁ!?」
作品名:A stór mo chroí 作家名:忍野桜