水の器 鋼の翼2
1.
「うーん、参ったな」
企画書を表示した端末機をテーブルに放り、不動博士は椅子の背もたれに身を投げ出した。
「物に名前を付けるのが、こんなに難しいなんてなあ」
「コードネームと言えば、普通は地名や人名から取ったりするものですが、それだとあまりしっくり来ないんですよね」
レクスが、独語の辞書をばたんと閉じて言った。厚さは七センチ以上もあるこの辞書は、閉じるのだけでも一苦労だ。ずっしりとした重さの辞書を段ボール箱に戻しながら、レクスは数時間前の苦労を思い出す。この辞書は資料室から苦労して運んできた資料だった。だが、目ぼしい単語が見つからなかった以上、没にするしかない。
「世界初の永久機関なのですから、箔のある名前を付けてやらねばならんでしょう」
人名事典を隅々まで引っくり返し、メモをとりつつルドガーが意気込んで答える。ルドガーのこの研究にかける情熱は並々ならぬものだ。彼が書き出したメモにはあらゆる言語の名称が、用紙が真っ黒になるくらいにびっしりと綴られている。
「今はまだ便宜的なコードネームとはいえ、後でスポンサー向けに発表する予定ですものね」
この部屋の紅一点である人が、日本語の古語辞典をぺらぺらめくりながら、くすくすと笑っている。
「その場の勢いで変な名前を付けてしまって後悔するのは、何も子どもの名前に限ったことじゃないですし」
――海馬コーポレーション本社、モーメント研究開発部。通称MIDSと呼ばれるそこでは、四人の科学者が額を集めて相談の真っ最中だった。不動博士と、後に不動夫人と呼ばれることになる女性と、レクスと、ルドガーと。四人は、自分たちの研究につけるコードネームについて話し合っていた。
海馬コーポレーション(KC)が大々的に開発に乗り出した、永久機関「モーメント」。モーメントの研究開発のために、ありとあらゆる科学者がこのドミノシティに集められた。その中でもトップに立つのがこの四人の科学者だ。
彼らは、持てる科学力を最大限駆使して、モーメントの理論をより堅固に築き上げた。いかにして、高エネルギーを安定して供給するか。いかにして、エネルギー機関を安全に運用するか。未だ誰も成し遂げられていない、夢の永久機関の設計は、それこそ科学者の心血を込めた仕事だった。頼れるのは、自分たちの科学力だけだったのだ。そうして、ようやく形になった。「第一号モーメント」及びそれに付随するシステムの企画書が。
第一号モーメントと、それに付属する制御装置四基。通常時は第一号モーメントでエネルギーを生産し、非常時には制御装置に制御カードを認識させ、モーメントを停止させる。建造に当たり、少々の仕様変更もあるだろうが、基本のシステムは大体これだ。
第一号モーメントを建造する候補地も、あらかた確定した。後は、これらの研究成果にコードネームを付け、会議に提出するだけ。そうして彼らの夢は、ようやく一歩進むのだ。
だが、このコードネームの選定がなかなかに困難を極める作業だった。モーメントと制御装置に当てはまるようないい名前が、どうしても見つからないのだ。五基で一つのシステムを構築しているのだ、付けるなら何らかの形で関連付けた名前でないとしっくりこない。
このコードネームは、研究所内だけでなく、後々スポンサーやマスコミに向けて正式に発表する予定でもある。変な名前を付けて世間の笑い物にはしたくない。
彼らの眼前には、辞書や百科事典が山積みになっている。辞書だけでも、英語を始めとして独語に仏語、果ては少数言語の辞書まで揃えられている。数時間前に、四人が資料室から手分けしてこの部屋に運び込んだ資料だ。その半数近くが没を食らって元の段ボール箱に舞い戻っている。
とんだ長丁場でへとへとになっている科学者たちだが、実は彼らはこの作業をそれほど苦にはしていない。言うなれば、楽しい苦悩なのだ、これは。
永久機関の実現は、今も昔も科学者の夢だった。あらゆる科学者が挑戦しては挫折していった、夢物語のような存在だった。それを、四人を始めとするMIDSがここに実現しようとしている。時に夢の世界へと逃げ出しかけた自分たちの夢の研究が、名前を付けることで永久に現実に固定化されるのだと、彼らは信じているのだ。
だからこそ、適当なコードネームは付けたくない。製造番号そのままなんて、もっての外だ。コードネームの良しあし一つで、今後の研究意欲が大きく左右される。ネーミングとイメージが大事なのは、カードも研究も一緒だ。
『神話や伝説からあやかって命名するのはどうだろう?』
誰が最初にそんな提案をしたのだったか。レクスはもう覚えていない。あの提案をきっかけに、難航していた命名作業がとんとん拍子に進みだしたのは覚えている。まるで何者かに後押しされるかのように。
エジプト神話にギリシャ神話。アーサー王の伝説。メジャーな物からマイナーな物まで、ありとあらゆる神話や伝説を四人は集めた。研究分野外の資料は、四人にとって研究の合間の一種の清涼剤だった。
そうして集まった、研究室の膨大な資料の中に、「それ」はあった。
「――「赤き竜の伝説」?」
いつの間に持ち込まれたのだろうか、他の資料よりも古びた赤い表紙のそれは、当然のような顔をしてそこにあった。ルドガーが、本を取り上げて首をかしげる。
「こんな本、いつ持ってきたのだったか……」
「どんな内容なんだ? ルドガー」
「あ、はい。ええとですね」
興味しんしんな三人の前で、ルドガーが本の内容を読み上げてみせる。
プレ・インカの神話、「赤き竜の伝説」。それには、「赤き竜」と呼ばれる竜神の話が記されていた。本によると、赤き竜は、人間に味方する善き神なのだそうだ。未開の人間に文化を与え、生贄を止めさせるなど、赤き竜の御業は枚挙にいとまがない。
中でも一際科学者たちの目を引いたのは、神々の戦いについての話だ。冥府を司る神々と、しもべの竜を率いた赤き竜との戦い。壮絶な争いの末に赤き竜が勝利し、負けた方の神々は大地にナスカの地上絵として封じられたという。
四人が、今まで読んだことも聞いたこともなかった神話。荘厳な語り口のそれを読み終わると、彼らは一様に沈黙する。彼らの心は、今や一つになっていた。ややあって、不動博士が口を開く。
「これがいいな。うん、これにしよう」
モーメントに付けるコードネームは、彼の一言であっさり決定した。
第一号モーメントと制御塔四基、それと制御塔の制御カード。
モーメント本体と制御塔には、冥府の神の名が付けられた。一方の制御カードは、赤き竜のしもべの竜をモチーフにした。モーメントも制御塔も、この大地に築き上げられ、動かされることはない。それらと制御カードの関係を、冥府の神と赤き竜の戦いの結末になぞらえたのだ。
コードネームは、モーメントの企画書と共に会議を無事に通り、本格的に計画が施行され始めた。西ドミノ地区にある候補地でモーメントと制御塔が建造され、完成間近になった時には制御カードも完成し、MIDSの元に届けられた。
「うーん、参ったな」
企画書を表示した端末機をテーブルに放り、不動博士は椅子の背もたれに身を投げ出した。
「物に名前を付けるのが、こんなに難しいなんてなあ」
「コードネームと言えば、普通は地名や人名から取ったりするものですが、それだとあまりしっくり来ないんですよね」
レクスが、独語の辞書をばたんと閉じて言った。厚さは七センチ以上もあるこの辞書は、閉じるのだけでも一苦労だ。ずっしりとした重さの辞書を段ボール箱に戻しながら、レクスは数時間前の苦労を思い出す。この辞書は資料室から苦労して運んできた資料だった。だが、目ぼしい単語が見つからなかった以上、没にするしかない。
「世界初の永久機関なのですから、箔のある名前を付けてやらねばならんでしょう」
人名事典を隅々まで引っくり返し、メモをとりつつルドガーが意気込んで答える。ルドガーのこの研究にかける情熱は並々ならぬものだ。彼が書き出したメモにはあらゆる言語の名称が、用紙が真っ黒になるくらいにびっしりと綴られている。
「今はまだ便宜的なコードネームとはいえ、後でスポンサー向けに発表する予定ですものね」
この部屋の紅一点である人が、日本語の古語辞典をぺらぺらめくりながら、くすくすと笑っている。
「その場の勢いで変な名前を付けてしまって後悔するのは、何も子どもの名前に限ったことじゃないですし」
――海馬コーポレーション本社、モーメント研究開発部。通称MIDSと呼ばれるそこでは、四人の科学者が額を集めて相談の真っ最中だった。不動博士と、後に不動夫人と呼ばれることになる女性と、レクスと、ルドガーと。四人は、自分たちの研究につけるコードネームについて話し合っていた。
海馬コーポレーション(KC)が大々的に開発に乗り出した、永久機関「モーメント」。モーメントの研究開発のために、ありとあらゆる科学者がこのドミノシティに集められた。その中でもトップに立つのがこの四人の科学者だ。
彼らは、持てる科学力を最大限駆使して、モーメントの理論をより堅固に築き上げた。いかにして、高エネルギーを安定して供給するか。いかにして、エネルギー機関を安全に運用するか。未だ誰も成し遂げられていない、夢の永久機関の設計は、それこそ科学者の心血を込めた仕事だった。頼れるのは、自分たちの科学力だけだったのだ。そうして、ようやく形になった。「第一号モーメント」及びそれに付随するシステムの企画書が。
第一号モーメントと、それに付属する制御装置四基。通常時は第一号モーメントでエネルギーを生産し、非常時には制御装置に制御カードを認識させ、モーメントを停止させる。建造に当たり、少々の仕様変更もあるだろうが、基本のシステムは大体これだ。
第一号モーメントを建造する候補地も、あらかた確定した。後は、これらの研究成果にコードネームを付け、会議に提出するだけ。そうして彼らの夢は、ようやく一歩進むのだ。
だが、このコードネームの選定がなかなかに困難を極める作業だった。モーメントと制御装置に当てはまるようないい名前が、どうしても見つからないのだ。五基で一つのシステムを構築しているのだ、付けるなら何らかの形で関連付けた名前でないとしっくりこない。
このコードネームは、研究所内だけでなく、後々スポンサーやマスコミに向けて正式に発表する予定でもある。変な名前を付けて世間の笑い物にはしたくない。
彼らの眼前には、辞書や百科事典が山積みになっている。辞書だけでも、英語を始めとして独語に仏語、果ては少数言語の辞書まで揃えられている。数時間前に、四人が資料室から手分けしてこの部屋に運び込んだ資料だ。その半数近くが没を食らって元の段ボール箱に舞い戻っている。
とんだ長丁場でへとへとになっている科学者たちだが、実は彼らはこの作業をそれほど苦にはしていない。言うなれば、楽しい苦悩なのだ、これは。
永久機関の実現は、今も昔も科学者の夢だった。あらゆる科学者が挑戦しては挫折していった、夢物語のような存在だった。それを、四人を始めとするMIDSがここに実現しようとしている。時に夢の世界へと逃げ出しかけた自分たちの夢の研究が、名前を付けることで永久に現実に固定化されるのだと、彼らは信じているのだ。
だからこそ、適当なコードネームは付けたくない。製造番号そのままなんて、もっての外だ。コードネームの良しあし一つで、今後の研究意欲が大きく左右される。ネーミングとイメージが大事なのは、カードも研究も一緒だ。
『神話や伝説からあやかって命名するのはどうだろう?』
誰が最初にそんな提案をしたのだったか。レクスはもう覚えていない。あの提案をきっかけに、難航していた命名作業がとんとん拍子に進みだしたのは覚えている。まるで何者かに後押しされるかのように。
エジプト神話にギリシャ神話。アーサー王の伝説。メジャーな物からマイナーな物まで、ありとあらゆる神話や伝説を四人は集めた。研究分野外の資料は、四人にとって研究の合間の一種の清涼剤だった。
そうして集まった、研究室の膨大な資料の中に、「それ」はあった。
「――「赤き竜の伝説」?」
いつの間に持ち込まれたのだろうか、他の資料よりも古びた赤い表紙のそれは、当然のような顔をしてそこにあった。ルドガーが、本を取り上げて首をかしげる。
「こんな本、いつ持ってきたのだったか……」
「どんな内容なんだ? ルドガー」
「あ、はい。ええとですね」
興味しんしんな三人の前で、ルドガーが本の内容を読み上げてみせる。
プレ・インカの神話、「赤き竜の伝説」。それには、「赤き竜」と呼ばれる竜神の話が記されていた。本によると、赤き竜は、人間に味方する善き神なのだそうだ。未開の人間に文化を与え、生贄を止めさせるなど、赤き竜の御業は枚挙にいとまがない。
中でも一際科学者たちの目を引いたのは、神々の戦いについての話だ。冥府を司る神々と、しもべの竜を率いた赤き竜との戦い。壮絶な争いの末に赤き竜が勝利し、負けた方の神々は大地にナスカの地上絵として封じられたという。
四人が、今まで読んだことも聞いたこともなかった神話。荘厳な語り口のそれを読み終わると、彼らは一様に沈黙する。彼らの心は、今や一つになっていた。ややあって、不動博士が口を開く。
「これがいいな。うん、これにしよう」
モーメントに付けるコードネームは、彼の一言であっさり決定した。
第一号モーメントと制御塔四基、それと制御塔の制御カード。
モーメント本体と制御塔には、冥府の神の名が付けられた。一方の制御カードは、赤き竜のしもべの竜をモチーフにした。モーメントも制御塔も、この大地に築き上げられ、動かされることはない。それらと制御カードの関係を、冥府の神と赤き竜の戦いの結末になぞらえたのだ。
コードネームは、モーメントの企画書と共に会議を無事に通り、本格的に計画が施行され始めた。西ドミノ地区にある候補地でモーメントと制御塔が建造され、完成間近になった時には制御カードも完成し、MIDSの元に届けられた。