楽園
あれだけ嫌だ嫌だと言っていたにもかかわらず、この役目を誰にもレイは譲らなかった。その姿をリボンズは知っている。やはり無表情のままで、棺に縋るレイの姿を眺めていた。
「笑うか、愚かだと」
レイはリボンズに振り替えることなく聞いた。
「いいえ」
「なぁ、リボンズ。僕は君に嫉妬さえ、している」
「嫉妬」
「そうさ。君ならば目覚めたイオリアと同じ場所に立って、同じものを見て、彼と共感できるだろう」
それが幼い、不条理な怒りだと例も気づいていた。またそれをリボンズにぶつける事も筋違いだとレイはわかっていたが、止めることはできなかった。
「ならば、あなたもコールドスリープをすればいい。そうすればまた同じ時を生きることが出来る」
「あいにく、僕は彼ほどこの世界を愛していないし、この世に執着も未練もないんだ。彼には悪いが、たかだか二百年で人類の本質まで変革する事は出来まいよ。そこまで付き合う勇気もない。まぁ、いい夢を見させてもらったと思っている。感謝しているよ、イオリア」
よろよろと立ちあがり、レイはリボンズの肩に両手をかけた。
「どうか彼を、イオリアを助けてやってくれ。彼が目覚めて、一人ぼっちで寂しくないように。彼が目覚めるまで、傍にいておくれ。目覚めた後も、支えてやってくれ」
「レイ?」
「ああ見えて、彼は意外と寂しがり屋だから」
「レイ……」
僕は今、上手く笑えているのだろうか。泣いているなら格好悪いな、とひどくどうでもいいことをレイは考える。リボンズが何も言わないでいてくれたことが、うれしかった。
「頼んだよ、リボンズ。私たちの希望、最後の天使」
レイはリボンズを両手で抱きしめた。
これからこの子は一〇〇年、二〇〇年という長い時を生きていくのだ。人類のために。ヴェーダの、地球の、そしてイオリアの棺の守人として。
「愛しい我が子よ、さようならだ。リボンズ。君の紡ぐ新たな世界に祝福を、祈っている」
* * *
「……」
給仕役のイノベイドからドリンクのチューブを受け取るが、とても飲むような気分にはならなかった。
終わったのだと思う。何もかも。イオリアはこれからの未来に楽園があると信じたが、レイにとってはイオリアと過ごした日々こそが、楽園だった。
ふいに、学生時代の思い出が蘇った。あれはキャンパスの中庭だったのだろうか。場所は覚えていなかったが、木漏れ日の中で語り合ったのを覚えている。
「なぁイオリア。ユートピアって言葉を知っているか?」
「理想郷だろう」
何を言い出すのか、とイオリアは隣に座るレイを見つめた。
「そうだ。六百年も昔に書かれた寓話だよ。『素晴らしく良いがどこにも存在しない国』」
「私の論文は理想論に過ぎないと」
「そうは言っていないが、まぁ、似たようなものだね」
「愚かだと笑うか」
「笑えるものならね。だけど、君の論文は酷く魅力的だ。僕の持てる知識と技術を全てつぎ込んではいいほどには」
クス、と笑って、レイは隣に座るイオリアの手を握りしめた。
「僕は君と同じものが見たい。同じ場所に立って、同じものを見て、君と共感したい。解りあいたい。だけど、君は今、とても遠くにいるね」
「隣にいるじゃないか」
「うん。だけど、とても遠いよ……」
この大学にいる人たちは、人類の財産とでもいうべきイオリアが、ここにいるなんて気づいてもいないのだろう。恋人同士並んで歩く者や、運動部の学生が走り回る姿を目の端で追いながらレイは思った。
「人類が争いの火種を抱えたまま、外宇宙への進出を防ぐこと。そして来たるべき異種との対話に備えること、ね。美しい夢物語だよ。私たちは解り合おうと行動するよりもまず、解り合おうと意識することさえ、難しいというのに。それを難なく口にできるというだけで、尊敬に値するね。イオリア。君の愛は大き過ぎるな」
イオリアの書いた論文をそらんじてみせる。夢物語だと言う割に、それほど読み込んでいるという事実が恥ずかしかった。だがそれだけ、彼の書く論文も、彼自身も、レイにとっては魅力的だったのだ。
窓からは青く光る地球が見えた。美しい、イオリアが愛した星、イオリアが愛した人類。これから先、イオリアの予言通り、人類は未来への道を歩むのだろう。それをこの目で確認することは叶わないが。
もうすぐ大気圏突入だ。音も立てずに耐熱パネルが窓を覆っていき、宇宙は見えなくなった。
オンオンオン……と重低音が艦内に響き、シートベルトを締めるようアナウンスが客室に響いた。
「君の愛は、大き過ぎる。僕にはそんなふうに人は愛せないよ…」
地球に戻るスペースシャトルの中で、レイは泣いた。
【終】