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ヨギ チハル
ヨギ チハル
novelistID. 26457
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楽園

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少年はおとなしくお茶を啜っていた。イオリアの書いた論文通りならば、少年の身体には人間の血液と同じ、赤い色をした体液が流れているはずだった。しかし見目だけでは信じられなかった。美しいが、明らかに人でないもの。瓜二つの顔をしたレイからは、イオリアはそんな得体のしれない冷たさなど感じたことはなかった。
「名前はこちらで付けさせてもらったよ。管理の都合もあるし、なにより形式番号じゃああんまりかわいそうだろう。名前はリボンズ」
 テーブルに備え置いてあったメモ紙に、レイは少年の名前を走り書きをした。
「『ribbons』 未来へと連なる僕らの希望」
「また恥ずかしい名前を付けて」
 イオリアはレイが共同で研究開発した量子演算処理システムにも『ヴェーダ』という名前を勝手に付けていたのを思い出した。元は『知識』を意味するサンスクリット語、『聖なる知識』の意味がある。たしかに地球上のすべての知識を管理する量子演算処理システムにはふさわしい名前であるとは思うが。最初は仲間内だけだった名称が、いつのまにか正式名称になっていた。
「あっ君、今馬鹿にしたな。まぁ、いい。仲よくしてやってくれ」
「まさか置いていく気じゃないだろうな」
 腰を上げて帰り仕度を始めるレイに、イオリアは焦ったような口調で問いかけた。
「置いていくさ。その為に連れてきたんだもの。好きに使ってくれて構わないよ。ヴェーダの端末はもちろん、簡単な雑用も出来るようにしてあるから、次ここに来た時に使い勝手を教えてくれ」
「レイ」
 勝手に物事を決めるな、とレイを止めようとすると、少年と目があってしまった。
「バックアップもアップデートも、全部僕の方で出来るから安心してくれていいよ」
「お役にたちます、イオリア・シュヘンベルグ様」
「……」
 固まるイオリアに対して、レイは大げさにため息をついて見せた。
「はぁあ、世の俗物だけでなく、健気なこんなに可愛い子にも君は冷たくするのか。人非人だなぁ、イオリア。おお、可愛そうなリボンズ。さぁ父さんの所においで」
 黙ってレイに頭を撫でられている少年は、依然としてイオリアの顔をじっと見つめていた。
「……」
「さぁ、どうする」
「……仕方ないな。次にお前が来るまでだからな」
「さすが、イオリア」
「ありがとうございます、イオリア・シュヘンベルグ様」
「それから、私のことはイオリアでいい」
 良かったなぁ、ともう一度少年の頭を撫でると、レイは壁に掛けてあった上着をはおる。
「じゃあ、僕は失礼するよ。なにかあったら連絡してくれ。リボンズも、解らないことがあったらイオリアに何でも聞きなさい。僕に直接聞きたければ、いつでも連絡してきて構わないから」
 さっさと支度を済ませて、レイは部屋を出て行った。白いクルーザーが本土に向けて進んでいくのを、イオリアとリボンズは窓から眺めていた。
「……リボンズといったな。もう一杯、お茶を入れてくれないか」
「はい、イオリア様」
 こうして孤島での二人の生活が始まった。



* * *


「コールドスリープだって!?」
 ガチャン、と音を立ててレイはカップをソーサーに落とした。中身が零れなかったのがせめてもの幸いだ。
「馬鹿も休み休み言え!ヴェーダこそ実用化まで至ったが、軌道エレベーターも、機動兵器だって、まだ理論上の産物じゃないか」
「仕事はするさ。全部落ち着いたら、だ。全部終わったらヴェーダとともに月へ行く。君には最後まで付き合ってもらいたい」
「それでコールドスリープのスイッチを押せって?それも僕に!そんな月旅行、絶対嫌だね」
 肩を震わせて、怒気を隠すことなく声を荒げるレイの姿など、イオリアも、リボンズも見たことがなかった。
今日もいつものように三人でお茶を楽しむはずだった。本土の研究所でどこまで開発が進んだとか、新しくレストランやカフェが開店したから今度一緒に行こうだとか、そういった他愛のない話をしていたはずだった。それなのに、イオリアがとんでもないことを口にしたために、穏やかな午後の時間はもろくも崩れ去った。
「レイ」
「少し考えさせてくれ」
 聞きたくない、とレイは頭を抱え、なだめるようにイオリアはレイの肩に手を添えたが、レイは振り払った。
「頼むよ、レイ。頼めるのは、君しかいない」
「こんなときばかり頼るなんて、イオリア、君はずるいな」
「そうだな。君が断らないのを知っているから、こうして頼めるんだ」
 ふらりと立ち上がり、レイは部屋を出ていく。中庭に出るのだろう。
「少し風に当たってくる」
 レイの後ろ姿を見つめながら、イオリアはひとりごちた。
「すまないな、レイ。それでも私は見てみたいのだよ。己の目で。人類が革新した姿を。美しい、希望にあふれた、誤解なくわかりあえる人々と、争いのない楽園を」



* * *


コールドスリープの技術は今よりもさらに一〇〇年ほど前にユニオンや人革連のとある企業で始まっていたらしい。人体冷凍保存といわれ、マイナス196度の液体窒素の中で冷凍保存する方法である。その多くは現代の医療技術では治療できない病を持つものが、未来の技術によって蘇生させ治療する事を目的としている。だが実際のところは、冷凍された人体が細胞に何の損傷もなく解凍させることが出来るかどうかさえ、あやしい技術だった。現代ではコールドスリープを選択する人々もいないではないが、やはりごく少数派の金持ちに限られている。
ザザ、ザ…と絶え間なく波音が聞える。
中庭は白い壁が張り巡らせてあり、海に向かっていくつかの小窓がある。そのうちのひとつから外を覗きこめば、キラキラと輝く紺碧の海が広がっていた。白壁と、青空と、紺碧の海が美しい。絵にかいたような、まさしく楽園の風景だった。
だがそれを見つめているだろうレイの瞳には何も映ってはいなかった。
「……馬鹿を言え。百年先だろうが、二百年先だろうが。君が目覚めた時には、僕はもう隣にはいないのだよ。イオリア……!」


* * *


 結局のところイオリアの意志は変わらず、またレイも月にあるソレスタルビーイングの基地に行くことを拒めるはずもなく、全てはイオリアの望み通りになった。つまりは、コールドスリープである。これから先、イオリアの計画通りに世界は進んでいくのだろう。その為の下準備も完璧だった。計画の根幹にヴェーダを置き、世界中に情報収集のためのイノベイドを散らばせた。組織の存続のために『監視者』というシステムも作り上げた。あとはイオリアの望んだ未来になるまで、ただ静かにこのガラスの棺で眠るだけである。
 イオリアの棺は月の地下基地にヴェーダと共に安置されていた。
 レイは最後の別れとでも言うように、ガラスの棺を抱え込むようにイオリアを見つめた。すでにコールドスリープの装置は作動してある。どんなに声をかけても、イオリアが目覚めることはない。
「愛していたよ、イオリア。君の才能に嫉妬もした。名声に執着しないことに驚きもした。それでも君を愛していたよ。たとえこんな役割でも君に頼られるというのは、いいものだな。こんなにうれしいことはない」
作品名:楽園 作家名:ヨギ チハル