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愚者の遺言

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(―うそだ、)

そんなはずはない、だって、彼は。



みちり、と筋の切れる音がして傷口からは赤黒い血が流れていた。そこは触れると少しやわらかく、熱を孕んでいる。目の前の男がちいさく咳き込むと血の香りが広がった。額に生温かい水滴の落ちるのを感じて触れると、ぬるりとふるえた手が滑り服を床を汚した。

わるいゆめだ、でなければこんなことはあり得ない。けれどももし、万が一―――?

彼―平和島静雄は自身の知る限り最も人間、というものからかけ離れた存在であった。出会った時こそそこに利用価値を見出しもしたが今となってはただ只管に忌々しいだけの存在。稀にこうやって内臓を抉り出すつもりでナイフを突き刺したとしても何故かそれは致命傷に至るどころか皮下5ミリ、そこを傷つけるだけで精一杯だったのだ。

少なくともこの瞬間までは。

しとどに血は流れ辺りには饐えた匂いが充満する。これは抜くべきか、しかしこのどす黒い血の色。ナイフは肝臓にまで達しているようであった。顔を見上げればおぞましいほどにうつくしい、赤。こぽり。彼が何かを口にしようとする。しかし流れ出るのは言葉ではなく鮮やかな紅だけであった。

不意に、彼の体が崩れ落ちる。掴もうとした手はけれど一瞬の躊躇。
(―俺は、なに、を、)
どさり。繋ぎ止める腕をなくした体は地に伏せられる。
それは瞬く間に血溜まりを作り折原の足元に触れ、その先から甘い痺れがもたらされ全身を支配する。それは勿論錯覚に他ならないが、現実味のないこの状況に自身はここが夢か現かの判別すらつけられずにいた。

彼はぴくりとも動かない。これはほんとうにかつて自販機を投げつけていたあの化物なのか。
ここに倒れているのは間違いなく人間であり、己の愛すべき対象であるのだ。このナイフで刺せば倒れる脆さ。その脆さを愛していた。だから、ここで動揺などするはずがないの、だ。
だと言うのに。


「…しずちゃん、」



ぽつりと落とされた言葉は重く、そのまま地面に沈み込むようであった。搾り出すように出した声に返事はない。それをみて足元から崩れ落ちそうになる自身を必死で支える。ここで倒れてしまったら、もう二度とたちあがれない。そんなばかばかしい妄想に囚われて、いた。


作品名:愚者の遺言 作家名:まんじゅ