愚者の遺言
「―随分と、」
良い夢だったようね。
あれが夢だと自覚した瞬間に覚醒し、耳に心地のよい女の声がした(無論その心地よさは折原に対する無関心に他ならない)
うなされていたわ、そう付け加えられ折原は顔を歪める。
「あぁ、本当に…。…素晴らしい夢だったよ」
「そう、良かったわね」
彼女は折原に顔を向けることもなくデスク周りの書類を片付けている。
コーヒーを淹れて欲しいな。
彼女の仕事の進捗などまるで無視して発言する。
不機嫌さを表すことはあっても彼女は雇い主に対して従順で優秀な秘書であった。
ソファに座り直した折原の前にコーヒーカップが置かれる。
波江さんコーヒー入れるの上手だよね、何処かで習ったの?
適当に相槌を打ちながら彼女は男に妙な違和感を感じていた。饒舌さはいつも通りであるが、何かいつもと違うような―
「シズちゃんが死んだんだ」
夢のなかで。
世間話の中の、ごくつまらないひとことであるかのように。
芳しい豆の香りに満ちた空間、一瞬訪れた沈黙にかちり、と秒針の音が響く。時刻は黄昏に迫っていた。ブラインドから漏れた陽が辺りを緋色に染め上げる。男の黒い服装がまるで返り血を浴びたようだった。
波江は違和感の正体を掴んだ。
(―これか。)ばかばかしい。たかが夢などに左右される、これはそんな男だったのだろうか。
そう思いながら彼女の表情は変わらない。
「で、俺も」
死ななきゃなんないかなぁ、って。そう告げた瞬間初めて波江は顔を上げた。
男はいつものように表情のない笑顔を貼り付けている。それを見て再びデスクに目を落とす。
書類は山積みだ。この男の夢物語などに構っている暇は無い。
しかし男はこともなげに言う。あぁほんとに残念だったなぁ、あれが正夢になればいいのに。
「…気持ちの悪い男」
嫌悪を隠さず言葉を繋ぐ。しかし男の笑みは崩れない。
ただ、ほんとうに残念そうに、口惜しそうに呟いた。欲しかったんだけどなぁ。
一体何がそんなにも。女は思う、しかしそれを問うことはない。
手に入れそびれたものは、憎むしかないほどに愛した亡骸。
そして、永遠を告げる言葉。