愚者の遺言
雑踏の音も喧騒もない静寂だけがそこにあった。
過去を思い返しては立ち尽くす。
その行為は自身の最も忌避するところであったが、いまの彼にはそうする以外の手立てがないように思われた。
あいしているあいしていると叫びながら憎んですらいた。そんな、愛しい生き物の中で彼だけが異質だった。
きみが絶える日を夢見ていたよ待ち望んでいたんだよ。そしてその日が来ないことも。
きっと君は俺と同じだと思っていたから、化物だと思っていたから。
それなのに、どうすればいい?そんなふうに人間のように死なれたら、もし君が人間だったとしたならば。
そうしたらもう、愛するしかないじゃないか。
自身の与り知らぬ感情の故に表情が歪んだ気がした。
しかしその歪みはすぐさまくちびるの端から削ぎ落とされる。
彼のいた非可逆の日常は終わりを告げ、あとに残されるのはきっととてもくだらない世界だ。
人知れず折原は笑う。かつて自身がいつもそうしてきたように。
そしてそっと膝を折り、地に伏した人の手を取る。それは何処か儀式めいていた。
思えば長らく人に触れたことなど無かった、故にこの手の温度が暖かいのか冷たいのかは分からない。
むしろこの空間では触れた感覚すら曖昧で、もしかしたら触れた先から溶け合ってしまえるかも知れなかった。
しかしそれは叶わない。恐らく彼は死ぬのだから。
彼という人間はここで途絶え、それでも世界はいつものように回り続ける、たった一人の人物を除いては。
そういえば、あの日の続きは結局言えないままであった。
もとより言うつもりなどはなかった、伝える気もなかった。
だと言うのに後悔の念が折原を苛む。
彼の死は己が一番願っていた事であるが、彼の不死を一番に信じていたのも他ならぬ折原自身だったのだ。
愚かしいだろうか、笑い飛ばされるのだろうか。
けれども、ああ、あの日言えなかったことばを今ここで。
「おれね、」
紡ぐ言葉は呪いのようでも誓いのようでもあった。
「シズちゃんが死んだら、」
そしてそれは。
「―その次の日に、死ぬよ」
たしかに、遺言だった。