庭師の恋
「これはなぁに?」
至近距離からかけられた声音に、フリオニールは文字通り飛び上がった。慌てて声のしたほうへ向きなおると、鮮やかな翡翠の髪が視界に入る。思ったよりも近すぎる距離に、フリオニールの心臓が大きく跳ねた。
「ティ、ティナ様……」
気づかぬ内に傍に居た少女に、フリオニールはうろたえた。ティナはフリオニールにとって主人の娘であり、親しく話をするような間柄ではない。幾ら主が気さくであろうとも、ブランフォード家は貴族の家柄であり、対してフリオニールはブランフォード家に仕える一介の庭師に過ぎない。
何よりも。
「ねぇ、これはなにかしら? バラみたいだけど、少し違うのね」
「えぇと……」
水を潜らせた宝玉のような、不思議に艶やかな瞳にじっと見据えられ、真っ白になった脳内から、懸命に言葉を探る。もともと土いじりに夢中な余り、女性慣れしていないフリオニールにとって、ティナは余りにも美しすぎた。身分差だけでも手一杯なのに、陶器の人形のような少女に対して、何をどう喋ればいいのかさっぱりわからない。
とはいえ、無視をするのはもっと無礼なことだし、少女の好奇心を満たしてやりたいとも思う。美しく素直で愛らしい少女に対し、その願いを叶えてやりたいと思わない人間など、きっといない。それが擬似的な保護者のような気分か、男としてかはさておき、もちろんフリオニールとて例外ではない。
飛び飛びになりそうな思考をなんとか立て直して、フリオニールはぎこちなく、僅かに笑んだ。
「これは野ばらですよ。正式な名前は俺も知らないんですが……」
窓の下に先ほど植えたばかりの植物を、繊細な指先でつんつんと突ついているティナに応える。
掘り返されたばかりの土から、青々とした茎が健やかに伸びている。ややもすれば野放図に成長するため、温室の植物に慣れた貴族からは風情に欠けると評されることが多いが、フリオニール自身としてはかなり好きな植物だった。頑丈で、たくましく、可憐な花をつけ……甘酸っぱい実を生らせる。お得極まりない植物だ。
「表に植えられたバラとは、ちょっと違うのね」
「あれは園芸品種というか鑑賞用というか……こっちは野生の品種ですから」
「でも、実まで食べられるなんてすごいわ! フリオニールは食べたことあるの?」
「子供の頃に何度か。甘酸っぱくて美味しかったですよ」
今はもう無い、フリオニールの故郷は野ばらが多く植えられていた。それは貧しい村ならではの工夫だったのだろう。花が咲くとその花弁を摘み取り乾燥させ、茶に混ぜ香りを付けるための嗜好品として売る。実が生ればそれも収穫し、煮詰めてジャムにし、売る。貧しい村にとって、それは貴重な特産品だった。
「そうなの……じゃあ、とっても楽しみね」
「そうですね。実がなったら、ティナ様にも差し上げますよ」
「本当?」
高揚した気分をそのまま表したかのように、ティナの声音が弾む。するりとしなやかなティナの指が、土に汚れたフリオニールの指に絡みついた。内緒話をするかのように、ひそめられたティナの声音が、耳にくすぐったく響く。
「あのね、笑わないでね? わたし、実はお料理があまりできないの。昔、一度だけお料理してみたんだけれども、セシルに台所を追い出されちゃったの」
「あー……まぁ……それは仕方ないんじゃないですか。爆発、させたそうですよね」
厨房を取り仕切る、温厚な青年を思い出し、苦笑する。セシルはフリオニールと同じくブランフォード家に仕える料理人で、柔らかい物腰に加え、彼が生み出す繊細な料理の数々は女性の心を掴んで離さないのだとかなんとか。
常に笑みを絶やさない彼が血相を変えてすっ飛んできたのは珍しかったので、フリオニールの記憶にも残っている。植物の手入れを任されている関係で、薬草の栽培にも携わっているフリオニールのもとに、火傷に効くものがないか尋ねに来たのだ。
フリオニール含め、何かとティナには甘い屋敷内の使用人たちなのだが、肝心のティナの身に危害が及ぶ可能性があるとなると、話はまた別だ。オーブンを爆発させたティナに、以後台所立ち入り禁止令が出されたのは、フリオニールとしても当然だと思っている。前回は幸い軽症で済んだが、そもそも厨房には危険が多い。それを避けさせようとするのは当然だろう。
だが、ティナとしては納得がいかないらしい。
「あれはまだ子供だったからだもの。今ならもう大丈夫なのに、セシルはお料理教えてくれないし……だから、ね? もし実が生ったら、セシルには内緒でジャムの作り方を教えてほしいの」
「お、おれがですか?」
「そう! それでセシルをびっくりさせるのよ。楽しそうでしょう?」
くすくすと笑みをこぼす少女に、フリオニールはつられるように口元を緩めた。
「いいですよ。きちんと覚えてないので、うまくいく保証はできませんが」
「約束だからね? 絶対よ?」
「……勿論です」
貴族の少女にはきっと、素朴にすぎる味だろう。それでも、ティナが楽しみにしてくれることが、ひどく嬉しかった。
だというのに。
至近距離からかけられた声音に、フリオニールは文字通り飛び上がった。慌てて声のしたほうへ向きなおると、鮮やかな翡翠の髪が視界に入る。思ったよりも近すぎる距離に、フリオニールの心臓が大きく跳ねた。
「ティ、ティナ様……」
気づかぬ内に傍に居た少女に、フリオニールはうろたえた。ティナはフリオニールにとって主人の娘であり、親しく話をするような間柄ではない。幾ら主が気さくであろうとも、ブランフォード家は貴族の家柄であり、対してフリオニールはブランフォード家に仕える一介の庭師に過ぎない。
何よりも。
「ねぇ、これはなにかしら? バラみたいだけど、少し違うのね」
「えぇと……」
水を潜らせた宝玉のような、不思議に艶やかな瞳にじっと見据えられ、真っ白になった脳内から、懸命に言葉を探る。もともと土いじりに夢中な余り、女性慣れしていないフリオニールにとって、ティナは余りにも美しすぎた。身分差だけでも手一杯なのに、陶器の人形のような少女に対して、何をどう喋ればいいのかさっぱりわからない。
とはいえ、無視をするのはもっと無礼なことだし、少女の好奇心を満たしてやりたいとも思う。美しく素直で愛らしい少女に対し、その願いを叶えてやりたいと思わない人間など、きっといない。それが擬似的な保護者のような気分か、男としてかはさておき、もちろんフリオニールとて例外ではない。
飛び飛びになりそうな思考をなんとか立て直して、フリオニールはぎこちなく、僅かに笑んだ。
「これは野ばらですよ。正式な名前は俺も知らないんですが……」
窓の下に先ほど植えたばかりの植物を、繊細な指先でつんつんと突ついているティナに応える。
掘り返されたばかりの土から、青々とした茎が健やかに伸びている。ややもすれば野放図に成長するため、温室の植物に慣れた貴族からは風情に欠けると評されることが多いが、フリオニール自身としてはかなり好きな植物だった。頑丈で、たくましく、可憐な花をつけ……甘酸っぱい実を生らせる。お得極まりない植物だ。
「表に植えられたバラとは、ちょっと違うのね」
「あれは園芸品種というか鑑賞用というか……こっちは野生の品種ですから」
「でも、実まで食べられるなんてすごいわ! フリオニールは食べたことあるの?」
「子供の頃に何度か。甘酸っぱくて美味しかったですよ」
今はもう無い、フリオニールの故郷は野ばらが多く植えられていた。それは貧しい村ならではの工夫だったのだろう。花が咲くとその花弁を摘み取り乾燥させ、茶に混ぜ香りを付けるための嗜好品として売る。実が生ればそれも収穫し、煮詰めてジャムにし、売る。貧しい村にとって、それは貴重な特産品だった。
「そうなの……じゃあ、とっても楽しみね」
「そうですね。実がなったら、ティナ様にも差し上げますよ」
「本当?」
高揚した気分をそのまま表したかのように、ティナの声音が弾む。するりとしなやかなティナの指が、土に汚れたフリオニールの指に絡みついた。内緒話をするかのように、ひそめられたティナの声音が、耳にくすぐったく響く。
「あのね、笑わないでね? わたし、実はお料理があまりできないの。昔、一度だけお料理してみたんだけれども、セシルに台所を追い出されちゃったの」
「あー……まぁ……それは仕方ないんじゃないですか。爆発、させたそうですよね」
厨房を取り仕切る、温厚な青年を思い出し、苦笑する。セシルはフリオニールと同じくブランフォード家に仕える料理人で、柔らかい物腰に加え、彼が生み出す繊細な料理の数々は女性の心を掴んで離さないのだとかなんとか。
常に笑みを絶やさない彼が血相を変えてすっ飛んできたのは珍しかったので、フリオニールの記憶にも残っている。植物の手入れを任されている関係で、薬草の栽培にも携わっているフリオニールのもとに、火傷に効くものがないか尋ねに来たのだ。
フリオニール含め、何かとティナには甘い屋敷内の使用人たちなのだが、肝心のティナの身に危害が及ぶ可能性があるとなると、話はまた別だ。オーブンを爆発させたティナに、以後台所立ち入り禁止令が出されたのは、フリオニールとしても当然だと思っている。前回は幸い軽症で済んだが、そもそも厨房には危険が多い。それを避けさせようとするのは当然だろう。
だが、ティナとしては納得がいかないらしい。
「あれはまだ子供だったからだもの。今ならもう大丈夫なのに、セシルはお料理教えてくれないし……だから、ね? もし実が生ったら、セシルには内緒でジャムの作り方を教えてほしいの」
「お、おれがですか?」
「そう! それでセシルをびっくりさせるのよ。楽しそうでしょう?」
くすくすと笑みをこぼす少女に、フリオニールはつられるように口元を緩めた。
「いいですよ。きちんと覚えてないので、うまくいく保証はできませんが」
「約束だからね? 絶対よ?」
「……勿論です」
貴族の少女にはきっと、素朴にすぎる味だろう。それでも、ティナが楽しみにしてくれることが、ひどく嬉しかった。
だというのに。