de profundis 【死者のための祈り】
肌を裂くような寒さは、たとえ人為的に防壁を作り火で空気を暖めたとしても決して衰えることはない。そのことを、このフェンデルという過酷な気候に支配された国に入ってから否応なしに身体で覚えざるをえなかった。
だから、それら今までの経験を総合して、ヒューバートはがさついた(眠るために身体を温めるには些か難のある)毛布を被りなおそうと試みる。が、そうしようという努力は聴覚が一瞬で捉えた些細な物音に阻まれた。足音の主、気配をなんとなく察すれば尚更だった。
以前ならば懐疑心からひと時息を殺し、相手に悟られぬように後をつけただろう――実際、そういうことを何度か試みていた。最も今思えば、あれは気付かれていた気もする。
そんな以前の自分の思惑とは全く別の配慮から、やはりヒューバートは毛布の中で息を殺し、身体を緊張させた。
また、だ。無意識にかさついた唇を強く噛んでいた。漠然とした無力感に次々と意識が苛まれ、肺と胃の腑を同時に圧迫する。不快感と焦燥感にギリ、と噛む力を強めた。鉄の味が、口腔内に広がった。
物音は、静かに遠ざかる。
軋む床の音とひどく遠慮がちに開かれた扉の音。それはとても小さく、だから隣の寝台で深い呼吸と共に眠りについている兄アスベルは気付きもしない――気付かなくても、よい、とヒューバートは思った。
すっかりと物音が遠ざかってから、吐息を漏らしてヒューバートは身体を起こした。保温性に優れた肌着の上にやはり熱を逃がさないように加工されたやや分厚いものを一枚、ではやはりぶるりと身体が震える。気ばかりが急いてしまう。戸惑いが僅かに胸中でざわめき、それは音にならぬように冷えた空気の中へと溶けて消えた。けれど、とくとくと心臓の音が煩い。もう一度溜息をついた。
定まらぬ視界のまま、寝台脇においてあった筈の眼鏡を探り素早く掛け、ついでに側に置いてある上掛けを羽織ると、いよいよ寝台から両足を出してすっかりと冷え切ったブーツにまだ温かさの残るそれを突っ込んだ。ひんやりとした感覚に背筋がぴしりと正される感覚と、羽織った上掛けが逃げようとする熱を包み込む柔らかな感触をない交ぜにしながら、ヒューバートは靴音を立てぬように歩き出した。
視界の端にチラと兄を認めるが、すっかりと夢の世界の住人である兄はかわらぬ様子だ。早鐘のような心臓を押さえるようにぐっと息を飲み込んで、そのままわずかな暖の残る寝室を、あとにした。
特に想像する努力をするまでもない、フェンデル首都ザヴェートの夜はまさに凍てついた世界というありがちな形容でしか表現出来なかった。ならば、そんな夜に好き好んで寒風に身を晒すのは酔狂で、相も変わらず冷気という名の鋭い牙をむく大気の中に踏み出してゆくのは愚の骨頂だ。
理性は、ヒューバートにそう告げる。だが感情は、この不思議と理解に苦しむようで心地よいような感情がヒューバートの両足を動かしていた。先ほどから熱にうなされるようにとくとくと鼓動する心臓は、落ち着く様子もない。こんな風に感情が熱を伴って頭の中で弾けるような感覚は、知らない。けれどもヒューバートは、自分の行動を止めることはできなかった。頬を包み込む冷気ときたらそれだけでも牙を剥く凶器だというのに。
無風に近い(それがこのザヴェートという都市では実に奇跡的である)状況だからといって気を抜けない、わだかまったままずんぐりと大地全てを凍らしめる大気は、それだけでも適応できぬ生き物を拒むのだ。
上掛けの分厚くてやぼったい襟に頬を埋めながら、ヒューバートはベランダと廊下を繋ぐ扉を閉めたことで、その場にいる気力全てを使い果たしてしまったような気分になり、立ち尽くしていた。
そこにあるだろうと想定していた背中は、事実そこにある。何も語ることのない、男の背中。それはただそこにあるだけで、全ての介入を否定している。
多分、どんな言葉もどんな態度も、その背を振り向かせることは出来ない。
知っていた、そんな自嘲気味な感情が浮上してきては飲み込み、かと思えば別の場所から再び湧き上がる。鈍器で殴られたようにじくりと痛むのはどこだろう。早鐘のような鼓動は漸く息を潜めてくれたというのに、替わりにひどく疲弊している。自分は、何をしたいのだ。こんな夜中に、こんな寒さの中で、こんな格好をしてまで。頭を振る気力もなかった。
そもそも、声をかけるつもりだったのだろうか。わずかに露出した肌を鋭利に切り裂くような凍りついた夜の空気の中、ふわりと静かに積もっただけの粉雪が空気の動きにあわせて踊り、レンズを経た視界をあっさりと不明瞭になってしまう。分厚い雪雲に隠された月は白亜の地上を照らしはしないし、原素の恵みが極端に少ないこの国に街灯などという気の利いたものはそう多くはない。自分でもよくわからぬ感情に任せた―普段は忌避してしかるべき行動に出たことにヒューバート自身の思考がついていけてはいない。だのにこの雪と凍りつく空気と静けさがその直感的な目的行動すらあっさり阻む。
毛皮と加工された衣服とはいえあっさりと体温は奪われてゆくだけで、動かねばという思いだけが切々とつのる。そのくせ実際に両足はその場に凍り付いてしまったかのように、ぴくりとも動かない。呼気すら、ままならない。
見えていた背中ですら、うすぼんやりと、そこにあるような気がするだけだ。
存在しているということは、視覚的に認識している。事実彼はそこにいる。酷い寒さの中で、いつもの格好のままで、ベランダで、ぼんやりと何かを眺めている背中。が、それが本当に存在しているものだ、という実感がヒューバートにはそっくり抜け落ちてしまっていた。
それらひどく無気味で軽い恐怖に似た感覚にいたたまれず、ぐっと、腹の底に感情を留めてから頭を振り「何をしているんですか」と凍えた空気と同等の温度で言葉を、漸く吐いた。
が、その声に気付いたであろう背中は振り返らなかった。動きもしなかった。だから、もう一度、寒気に震え固まる筋肉にぐっと力を込めて、叫ぶ「こんな夜中に、また疑われたいのですか」――こんなことを言うつもりではなかったのだと、言葉を口に乗せて即座に後悔をしながら、が、ヒューバートは言葉を撤回はしなかった。
口調がきつくなった自覚はある。きつくしたのだ。全く気付かぬようなそぶりをしているこの男に対する、せめてもの腹いせなのだ。
「ストラタ軍人にこの寒気は、眠りを妨害するに十分な脅威か」
少しばかり遅れて返ってきたのは、びっくりするほど遠く軽い声だった。その瞬間ヒューバートの中でカチリと感情に火花が散る。知った風な、それでいてやけに軽い口調が障る。らしくない程に浮ついたような声の軽さから覚える違和感は不快であったし、認識しがたい感情が正体をあらわにする前にヒューバートは背中に詰め寄った。ざく、ざく、と積もる先から凍るような雪が分厚い靴底を経ても尚足裏を冷やし、落ち着かない胸中をも一緒に冷してくれそうだ。
だから、というわけではないが、固く凍りかけている雪を、憎しみじみたものを込めて踏みつけてから立ち止まり、些か高い場所にある頭部をきつと睨み上げた。
だから、それら今までの経験を総合して、ヒューバートはがさついた(眠るために身体を温めるには些か難のある)毛布を被りなおそうと試みる。が、そうしようという努力は聴覚が一瞬で捉えた些細な物音に阻まれた。足音の主、気配をなんとなく察すれば尚更だった。
以前ならば懐疑心からひと時息を殺し、相手に悟られぬように後をつけただろう――実際、そういうことを何度か試みていた。最も今思えば、あれは気付かれていた気もする。
そんな以前の自分の思惑とは全く別の配慮から、やはりヒューバートは毛布の中で息を殺し、身体を緊張させた。
また、だ。無意識にかさついた唇を強く噛んでいた。漠然とした無力感に次々と意識が苛まれ、肺と胃の腑を同時に圧迫する。不快感と焦燥感にギリ、と噛む力を強めた。鉄の味が、口腔内に広がった。
物音は、静かに遠ざかる。
軋む床の音とひどく遠慮がちに開かれた扉の音。それはとても小さく、だから隣の寝台で深い呼吸と共に眠りについている兄アスベルは気付きもしない――気付かなくても、よい、とヒューバートは思った。
すっかりと物音が遠ざかってから、吐息を漏らしてヒューバートは身体を起こした。保温性に優れた肌着の上にやはり熱を逃がさないように加工されたやや分厚いものを一枚、ではやはりぶるりと身体が震える。気ばかりが急いてしまう。戸惑いが僅かに胸中でざわめき、それは音にならぬように冷えた空気の中へと溶けて消えた。けれど、とくとくと心臓の音が煩い。もう一度溜息をついた。
定まらぬ視界のまま、寝台脇においてあった筈の眼鏡を探り素早く掛け、ついでに側に置いてある上掛けを羽織ると、いよいよ寝台から両足を出してすっかりと冷え切ったブーツにまだ温かさの残るそれを突っ込んだ。ひんやりとした感覚に背筋がぴしりと正される感覚と、羽織った上掛けが逃げようとする熱を包み込む柔らかな感触をない交ぜにしながら、ヒューバートは靴音を立てぬように歩き出した。
視界の端にチラと兄を認めるが、すっかりと夢の世界の住人である兄はかわらぬ様子だ。早鐘のような心臓を押さえるようにぐっと息を飲み込んで、そのままわずかな暖の残る寝室を、あとにした。
特に想像する努力をするまでもない、フェンデル首都ザヴェートの夜はまさに凍てついた世界というありがちな形容でしか表現出来なかった。ならば、そんな夜に好き好んで寒風に身を晒すのは酔狂で、相も変わらず冷気という名の鋭い牙をむく大気の中に踏み出してゆくのは愚の骨頂だ。
理性は、ヒューバートにそう告げる。だが感情は、この不思議と理解に苦しむようで心地よいような感情がヒューバートの両足を動かしていた。先ほどから熱にうなされるようにとくとくと鼓動する心臓は、落ち着く様子もない。こんな風に感情が熱を伴って頭の中で弾けるような感覚は、知らない。けれどもヒューバートは、自分の行動を止めることはできなかった。頬を包み込む冷気ときたらそれだけでも牙を剥く凶器だというのに。
無風に近い(それがこのザヴェートという都市では実に奇跡的である)状況だからといって気を抜けない、わだかまったままずんぐりと大地全てを凍らしめる大気は、それだけでも適応できぬ生き物を拒むのだ。
上掛けの分厚くてやぼったい襟に頬を埋めながら、ヒューバートはベランダと廊下を繋ぐ扉を閉めたことで、その場にいる気力全てを使い果たしてしまったような気分になり、立ち尽くしていた。
そこにあるだろうと想定していた背中は、事実そこにある。何も語ることのない、男の背中。それはただそこにあるだけで、全ての介入を否定している。
多分、どんな言葉もどんな態度も、その背を振り向かせることは出来ない。
知っていた、そんな自嘲気味な感情が浮上してきては飲み込み、かと思えば別の場所から再び湧き上がる。鈍器で殴られたようにじくりと痛むのはどこだろう。早鐘のような鼓動は漸く息を潜めてくれたというのに、替わりにひどく疲弊している。自分は、何をしたいのだ。こんな夜中に、こんな寒さの中で、こんな格好をしてまで。頭を振る気力もなかった。
そもそも、声をかけるつもりだったのだろうか。わずかに露出した肌を鋭利に切り裂くような凍りついた夜の空気の中、ふわりと静かに積もっただけの粉雪が空気の動きにあわせて踊り、レンズを経た視界をあっさりと不明瞭になってしまう。分厚い雪雲に隠された月は白亜の地上を照らしはしないし、原素の恵みが極端に少ないこの国に街灯などという気の利いたものはそう多くはない。自分でもよくわからぬ感情に任せた―普段は忌避してしかるべき行動に出たことにヒューバート自身の思考がついていけてはいない。だのにこの雪と凍りつく空気と静けさがその直感的な目的行動すらあっさり阻む。
毛皮と加工された衣服とはいえあっさりと体温は奪われてゆくだけで、動かねばという思いだけが切々とつのる。そのくせ実際に両足はその場に凍り付いてしまったかのように、ぴくりとも動かない。呼気すら、ままならない。
見えていた背中ですら、うすぼんやりと、そこにあるような気がするだけだ。
存在しているということは、視覚的に認識している。事実彼はそこにいる。酷い寒さの中で、いつもの格好のままで、ベランダで、ぼんやりと何かを眺めている背中。が、それが本当に存在しているものだ、という実感がヒューバートにはそっくり抜け落ちてしまっていた。
それらひどく無気味で軽い恐怖に似た感覚にいたたまれず、ぐっと、腹の底に感情を留めてから頭を振り「何をしているんですか」と凍えた空気と同等の温度で言葉を、漸く吐いた。
が、その声に気付いたであろう背中は振り返らなかった。動きもしなかった。だから、もう一度、寒気に震え固まる筋肉にぐっと力を込めて、叫ぶ「こんな夜中に、また疑われたいのですか」――こんなことを言うつもりではなかったのだと、言葉を口に乗せて即座に後悔をしながら、が、ヒューバートは言葉を撤回はしなかった。
口調がきつくなった自覚はある。きつくしたのだ。全く気付かぬようなそぶりをしているこの男に対する、せめてもの腹いせなのだ。
「ストラタ軍人にこの寒気は、眠りを妨害するに十分な脅威か」
少しばかり遅れて返ってきたのは、びっくりするほど遠く軽い声だった。その瞬間ヒューバートの中でカチリと感情に火花が散る。知った風な、それでいてやけに軽い口調が障る。らしくない程に浮ついたような声の軽さから覚える違和感は不快であったし、認識しがたい感情が正体をあらわにする前にヒューバートは背中に詰め寄った。ざく、ざく、と積もる先から凍るような雪が分厚い靴底を経ても尚足裏を冷やし、落ち着かない胸中をも一緒に冷してくれそうだ。
だから、というわけではないが、固く凍りかけている雪を、憎しみじみたものを込めて踏みつけてから立ち止まり、些か高い場所にある頭部をきつと睨み上げた。
作品名:de profundis 【死者のための祈り】 作家名:ひの