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de profundis  【死者のための祈り】

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「死人と酒を交わせば、引きずり込まれるからな。月をこうして眺め、静かに故人を思い弔う。まあ、あまり一般的なやり方ではないが」

 ヒューバートが隣に並んだことを認めもしない。視線はかえってはこない。相変わらず茫洋と、どこかわからぬ場所を見ている。
 が、声色は常の重さを取り戻していた。深く、重く、感情が沢山入り混じっている声に聞こえるのは、ヒューバートがこのマリクという男に慣れてきた証拠だろうか。少なくとも、ここにこの男は存在している。この声は死者のものではない。生きる人間の、生きている言葉に違いない。無気味な不安はわずかに失せていて、そのことでヒューバートは己を取り戻す。

「そういう…。回りくどいやり方はストラタ軍にもあります。ウィンドルにもあるでしょう。月なんて見えないじゃないですか」

 らしい切り替えしだった、と自分では思った。実際に夜空に浮かんでいるであろうそれは、ぶあつい雲の向こう、今は見出せない。雪雲の向こうにあるであろう冷たい光が弔いだ。大人のまわりくどいやり方だ。
 ヒューバートの思惑がわかったのか、案の定、マリクは小さく鼻で笑う。その笑い方は悪意のあるものではない。ただの彼の癖なのだ。

「そうだな。けれどまあそれはいい。月はある、生きている俺たちに確認のしようはないがな。死者と生者は決して同じものを見ることはない」

 なんとも常識的な言葉が続き、ヒューバートは些か勢いを失った。マリクは動じた気配もない。そもそも、その真意などは幾重にも重ねられた彼という人間が生きてきた月日の長さの中にすっかりと埋没しているのだ――そんなことすら、ヒューバートは失念していた。

「それは、フェンデルの考え方でしょうか」
「さてな」

 はじめから、目的のある会話ではないのだ。だから、これで別によい。出すべき結論などはお互いにあるわけではなくて、ただ、このひどく寒い風のない夜には、こんなどうでもいい会話が妙に必要になる。
 単なる合理性のみを根拠にした想定では、決して解決しないものがある――そういうことをヒューバートに、実践という手段で知らしめた他ならぬ男は、無意識のうちにこういう真似をするのだ。兄が、常に敬い続ける理由も、感覚的にすべて肯定することは出来ずとも認めることは、漸く、出来るようになった、と思う。それを成長だと兄は笑って喜んでいた。
 ざわつくのは死者のことを思うからか。それは死を引きずる感覚だ。何度か、何度も経験している、それが自分に近ければ近いほど誤魔化しようはなく記憶が直接心を乱す。やさしいことではなかった、人の、死というものは。どれだけ意志を強く堅く戒めてもあっさりとそれを壊してしまう。軍にいれば当たり前の事だと感情を律していても、こういう夜はふと脳裏に浮かぶ事があった。そうすると、感情が飽和して眠りを妨げる。それでも悪夢に苛まれなくなっただけ、マシなのだろうか。そう見知った人間ではないから、なのか。かつてはこの感受性の強さを恨み否定していたが、今はそれを否定する気にはなれなかった。軍人として不器用ながらも生き方を貫いたその姿に、確かにヒューバートは、価値を見出していたからなのか。
 カーツ・ベッセルという敵国の軍人を。ストラタの人間であるヒューバート・オズウェルにとっては敵でしかない存在のことを。

「ぼくは、信念の下の死を選んだ人を、尊敬します」

 口にしてから、ああ、そうなのだ、とヒューバートはようやく納得した。そうだ。あのように死ねた彼を、ヒューバートは羨ましい、と、思ったのだ。信念の先にある己のための死に方をした、あの男のことが、羨ましかった。
 隣に立つ大人の気配が少しばかり戸惑うように動いた。実際には寂とした佇まいで身じろぎすらしてはいないが、そういう事をなんとなくヒューバートは感じ取った。
「カーツ・ベッセルには世の大義より優先すべきこと、敵対すべき理由と誇りと信念があった。生きることは死ぬこと。死ぬことは即ち生きることなのだと、彼の、…彼を見て、そう、……感じました」

 徐徐に言葉が、脳裏で不明瞭になり目的を失いそもそも言いたかった要点すら見失い、感覚だけが残った。それがあまりにも口から出てきた言葉に表れていたのだが、それを恥ずかしいことだ、と、今は感じない。思考は、鈍っているのだろうか。彼の死はある意味でひどく身勝手で無様でもあるけれども、そこに価値を見出す事は決して難しくはない。

「間違いだ、とかいう単純で簡単な言葉で済ませるのは、悔しく思うんです」

 重ねた言葉に、マリクは小さく息を吐き出した。凍えきった空気は時折思い出したように流れてゆく。その圧倒的な寒さの中僅かな溜息などはあっという間にかき消される。ヒューバートは隣立つ男の表情を視界の端にもおかなかった。

「それは、軍人としての言葉か」

 耳に響く違和感が、再びヒューバートの感情を直接揺さぶる。震えているように思える声なのか、らしくない言葉なのか。原因を究明しようと働く筈の頭脳は、寒さにすっかり鈍ってしまったようだ。

「いえ……どう、でしょうか」

 言葉が詰まったことを悟られまいか、そう思う一方こんな寒さの中では声くらいは震えていてもおかしくはない。一瞬にして自分に対する言い訳を作り出してしまう思考を情けなく思いながらも、隣に立つ男の顔に浮かぶ表情は、そんなヒューバートの手前勝手な胸中を払拭するには十分だった。
 決して、皆の前では見せないであろう―そう仕向けたのは他ならぬヒューバート自身である、所在無げな、マリク・シザーズという男にはまった相応しくはない苦悩に彩られた表情に、一瞬呼気を詰まらせてしまう。すっかり手がかじかんで、動かない。

「けれど、今のぼくの、感じたままの言葉だと、思うんです」

 言葉を吐き出すか否か、唐突に、頭部にすとんと重みを感じた。
 何事か、慌てて己の周囲を確かめる。隣に立つ男の表情は相変わらずだ。違っていたのは、その手のひらが、ヒューバートの頭部に添えられていたことだ。まるで子供の扱いに、けれどもヒューバートは怒る事すら忘れていた。ただ隣にある横顔を凝視するしかなかった。

「そうだな」

 苦味を噛み潰している笑みと声が、ヒューバートの言葉も思考も更に奪った。ヒューバートらしくはない感覚的で不明瞭な言葉を、マリクは否定しないのだ。ただ、受け止めた。父親のような手のひらがくしゃりと冷え切った髪を混ぜる感覚に疼くのは一体何なのかも、わからない。けれども冷え切った空気の中で、鼓動は再び駆け足だった。
 視線は再び空を彷徨い、男の横顔は輪郭をぼやけさせる。何度、ヒューバートが瞬きをしても錯覚のように思える鼻梁やら口元やら瞼は、触れたら多分そこにあるのだろうけれども、実感がなくなった。あるのはただあたたかなてのひらの感触だけ。
 今しがた自分が言葉を交わしていたのは、ここには存在していない死者であるのか。唐突で理解し難い感覚が息を吹き返す。ならば、今自分は死者と言葉を交わしているのか。けれども、触れている箇所はひどく生身の人間のあたたかさ。