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鷹の人1

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ふと見上げた暮色の空に、なにか飛ぶ影があった。
 黒色の影のみが、暮れて行く冬の空を飛んでいる。どこまでも白い大地と、影になった森林地帯。色彩のない世界。
 あの大きさ、ただの鳥ではない。ラグズだろうか。
 まとわりつく大気が冷たく、重い。その感覚的なことを、あえて誰かに言うつもりはなかった。
 ゆったりと空を舞う影は、やがて、黒い森の影の中へ消えた。

 あの辺りは、皇帝軍が陣営を築いていた。矢張りラグズだったのだろう。
 ラグズには、ベオクより遥かに優れた視力を有する者が数多くいるーーこと、今現在皇帝軍と行動を共にしているラグズ連合の中に、特に視力に優れた鷹の戦士がいるのだということは、以前彼らと親交のあった竜騎兵ジルから聞いていた。
 恐らくはこちらの様子を伺っていたのだろう。陽が落ちてしまえば、彼らの視力は役に立たない。
 鷹のラグズ。脳裏の奥底に閉じ込めた記憶を呼び覚ますように思われ、ペレアスは頭を振った。石造りの手すりに両手を置く。雪が数センチほど積もっていた。
 違う事を考える。あのように自在に空を駆る事が出来たのなら、自らベグニオンに潜入したものを。詮無いことだ。だが、ふと、そんなことを思った。手がかじかんでくる。手すりから手を離すと、触れていた箇所は赤くなっていた。
 丈夫ではない身体を散々痛めつけるような真似をしてきている。ここ数日は、仮眠こそすれろくに眠っても居ない。眠る暇すら惜しかった。絶望的な状況を打破する手段を、手探り状態で捜しつづけていた。
 頭は、冴えすぎる程冴えていた。過去に得た知識が、今さらのように甦ってくる。一度は捨てた命を、惜しいなどとは思わない。だが、最早死のうなどとは思うまい。それが唯一、ペレアスに科されたものなのだ。国を破滅に導いた愚かな王は己だ。
 せめて、戦地に赴く者に後顧の憂いなどはなきようにしたい。帰れる場所は、なくしてはならない。そのためならばなりふりなど構ってはいられなかった。
 すべてはデインの民が、デイン人として誇りを持てればそれでよい。
 そして彼らにはミカヤがいる。彼らの希望、彼らの夢の具現化した存在。だから自分は、彼らに現実を見せなければよい。
 汚い事も、あえて誰かに言えぬような事も、即位してから今までの間にいくつもやった。それを王の仕事ではない、と、一度騎士フリーダには咎められた。
 それでも、だれかがやらねばならなかったことだ。そして、デインには、その誰か、はペレアスしかいなかった。




 真に国を導くものなれば、一時の犠牲など考慮せず、元老院の要請をはねつけるべきだったのだ、という懸念は未だにある。デインは、ベグニオンに対して代々強い独立性を保とうとしてきていた。そして事実、その軍事力や軍需産業、及びそれに付随する様々な産業をデイン王国が独占的に掌握することで、名目上こそベグニオン皇帝を君主と仰げども、その裏では独立の機会を虎視眈々と狙っていた。その意識や気質は、国民すべてに及ぶ。だからこそ、ベグニオンの言いなりになり、参戦要請を受け入れたペレアスに対する国内の批判も少なくはなかったのだーーだが、なにせ相手はラグズ連合である。そこを踏まえ、むしろこの機会に連中を徹底的に滅ぼせ、などという過激な意見もあり、今回の参戦自体に関しては、批判と賛成の声はおよそ半々であろう。
 しかし、そこでラグズ連合は一つの決定的な間違いを犯した。亡命せざるをえなかった神使サナキを伴い、ベグニオン帝都を目指す道中で、よりにもよってデイン領内の通過を求めて来たのだ。勿論、ペレアスは頑に拒んだ。裏には元老院との誓約があったが、それよりも、ベオクとラグズの混成軍が、国内を通過するという事で起こる混乱や反発を考えれば、許可する理由などはなかった。ベグニオン皇帝であるという事は、ベグニオンとデインの関係を考えてみれば、さして重要ではなく、また神使という言葉は、だが、今のデインではそれほどの価値は持たない。
 現在、デインにおいては、神使サナキよりも、暁の巫女ミカヤという名の方が、余程崇拝、信仰の対象なのだ。現実に彼女は奇蹟を起こしていた。その輝ける記憶がして、彼女は女神の使い、などと言うものまで出て来ている。
 だが、ペレアス自身がルカンの脅し文句に心底怯えていたのも、また、事実だった。怯えた、というよりかあれは絶望だった。
 民が死ぬ。自らの過ちにより、犠牲なるのは民だという。その事がしてペレアスを絶望においやり、冷静な判断を不可能にした。
 だが考えてみれば、無為に参戦することもまた、兵とはいえデインの民を殺すことに他ならないのではないか。彼らは確かに兵士だが、同時にデインの民なのだ。
 先を見据えた思考を。そう、師には教わってきていた筈なのに、結局は一時の感情に惑わされ、元老院の言いなりになり、民に苦役を強いた。
 戦わない、という選択肢はなかったのか。どうにかして、参戦を拒む手段を、何故、死にものぐるいで捜さなかったのか。
 だから思うのだ。己は王の器などではないのだと、その度に感じていた劣等感は、いよいよもって表面に出て来てしまった。
 所詮、路地裏に生をうけ、親の顔などもしらぬ、生きていても死んでいても変わらぬような、そんな出自の人間だ。いくら着飾り、虚勢を張ろうとも、本質的なところが変わるわけではない。
 だが、嘆くペレアスを、誰も詰る事はなかった。一度は死ぬことでこの理不尽な誓約から逃れられる、そんな淡い希望に縋ったが、それすらも許されなかった。ミカヤは、それを許さなかった。そして彼女は言ったのだ。
 「生きろ」と。希望を捨てるなと。
 手傷を負い、それでも健気に微笑んでみせるミカヤを、美しいとペレアスは思った。なんと崇高な笑みなのかと、まるで雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。このような、愚かで、国を傾けるような真似をしたペレアスを、それでもミカヤは許すといった。死んで欲しくはないのだ、と願った。
 絶望の霧が、怯えが、すべて払われた瞬間だった。


 そもそも、全ての事の始まりも必然だった。それは偶発的なものではなく、意図的なものであること。
 当時こそ、歓喜の心に沸き立ったものだが、考えてみれば、誰も秘せられた王子の所在を知らなかった、などという事があるのだろうか。
 その居場所を、たったひとりイズカのみが知り、他者が全く知らない、などと、あまりにも非現実的すぎる。
 あまりにも巧く行きすぎ、事が運びすぎたデイン解放劇。舞台は、だが、用意されていたものだった。
 何かが常にひっかかっていた。己の事であるから、なおさらだった。
 そして、ペレアスを我が子と認めたアムリタその人は、ベオクではなくラグズだった。それも竜鱗族、大陸最強を誇る黒竜族の娘だったという事実。では、己は。
 ベオクとラグズが交わる事は禁忌であり、子を成せばその咎はラグズの親に現れるーーそして、アムリタはいった。ペレアスの額にある印、それこそが我が子の証、と。
 だが、この印は自ら施したものだ。忌々しい記憶は誤摩化しても、身体のうちに潜む闇の精と額の刻印は決して消える事はない。

 疑念はほぼ確信だった。ただーーそれを告げる事は、出来ない。
作品名:鷹の人1 作家名:ひの