鷹の人1
権力にすがるわけではない。玉座に執着するわけではない。だがここで己が正当な血筋ではないと告げたところで何が出来るのか。
何も、出来はしない。平時であればそれなりの手順を踏める。手順を踏み、ある程度法を整備し、機関を設け、然るべきものを王として選出することを可能にも出来る。だが今、この状況で真実を告げる事は危険だった。悪戯に事態を混乱させるだけであり、下手すればそのままデインという国はベグニオンに併合される。それでは何もならない。デイン王国の真の独立。民はベグニオンという強国の影に怯える事なく、デイン人であるという誇りを、謳歌出来る。そういう国を作りたかった。
だが夢は所詮夢でしかなかった。己の器量をわきまえず、高い理想だけを描いた、その代償がこの現状なのだろう。自嘲の笑いすらも、もはや起こらない。現実は、変わる事などはない。
朽ちかけたように見える漆黒の背表紙に手を伸ばし、触れる。ペレアスが触れたとたん、それは生き返ったかのように黒く深い輝きを増した。本来の持ち主の手に戻った事を、まるで喜んでいるようだ。イズカに連れてこられたとき、唯一、ペレアスが携えて来たものだった。
闇の魔道。それは、そもそも使い手を選ぶ魔道だ。
このテリウスにおいて、ほぼ禁忌とされている魔道。その理屈体系などは理の魔道に近い。理の魔道は自然に存在している精霊の力を行使するものだが、闇の魔道は、それら精霊の中でも混沌、変化、破壊の衝動といった「負」の気に直結しているようなものを好む存在だった。精霊と便宜的に同様の名で呼ばわってはいても、その本質は別物だ。
養い親の老婆の言を信じれば、十三を迎えた日。
彼女が、目の前で殺された。殺したのは、逃亡奴隷らしき鷹の半獣だった。
彼女は口数は少なく、だが矍鑠としてペレアスに世間の流儀と、世渡りの術と、信心の尊さを教えてくれた。厳しかったが、厳しさの中にも優しさのある人だった。
「相手をまず信じな。自分を信用してもらいたいならね」
老婆の口癖は、今でも時折思い出す。その度に、彼女は強いひとだったのだ、と思う。
老婆を襲った逃亡奴隷は。逃げ出せぬようにと風切羽根を無惨に切られ、右足には壊れかけた足枷がはめられていた。そして、奴隷装束らしき大きく空いた首周りからは、鎖骨の当たりに所有の印でもある焼き印が見えた。
彼にとって不幸だったのは、命からがら逃げ出して息をついたその場所が、よりにもよって反ラグズ筆頭国家デインの領内だった、ということだ。糧と水を所望しただけなのに、罵倒され、石を投げられ、猟師に追われた。獰猛な猛禽の目をしたその男は、既に聞く耳などは持っていなかった。そして何より、飢えていた。
出会い頭、彼は襲いかかってきた。
老人とは思えぬ素早い動きで老婆が庇わねば、ペレアスはあの時に死んでいたのだろう。
襲い、そして、ペレアスの目の前でその肉を喰らった。
自分を救い、ここまで育ててくれた親代わりの老婆を、鷹の半獣が文字通り食い物のようにーいや、喰っていた。喰われながら、老婆はただ逃げろと繰り返した。悲鳴などは、一度もあげなかった。
逃げろ。老婆は喰らわれながら息絶えるまで、ペレアスに逃げろと繰り返した。
だが老婆の言葉とは裏腹に、おぞましいその光景を、ペレアスは呆然と眺めていた。逃げ出す、ということは、できなかった。足が動かなかったのだ。
ペレアスの育ての親だったものを喰い散らかし、満足したのだろうか。男は、滴る血をぬぐいながら、たちすくむ小さな子供には目もくれず、森へ消えた。
聞きかじった知識だけで精霊との契約を行った。
復讐をしたい、一心だった。純粋な心はどす黒い破壊の衝動に彩られていた。
魔道の心得はあった。身体の弱い自分に武器などは扱えない。あの強靭な肉体をもつ化け物を殺すには、それしかなかった。老婆が何かの役に立つだろう、と伝授してくれていたのだ。だが、それは闇の魔道ではなかった。そして結局、なんとか行使出来たのは最も激しい気性を持つ雷の精霊のみだった。
思えば、五体満足無事であったその事がそもそも僥倖だ。契約した精霊はよりにもよって「闇の精霊」と呼ばれるものであり、他の理の精霊よりも凶暴に、そして貪欲に破壊を、混沌を望む。純粋な復讐心が、あるいは彼らを呼んだのか。
老婆を襲い喰らった半獣は片腕だった。片腕で、顔に傷がいくつもあったということを、ペレアスは記憶していた。
デインの辺境を、幾日も飲まず喰わずで歩き続けた。
精霊との契約の代償か、以前より食欲というものはなくなっていたのだが、どれほどに歩きつづけても疲労を感じなかった。
男を見いだしたのは、半月程後だったろうか。北海に面した寂れた漁村の近くでようやく出会えた半獣は、記憶よりもさらに酷い態をなしていた。両翼が無惨にちぎれ、肌は冬の海風長い間晒されていたのだろうか、無数の傷から膿を疼かせていた。嵌められていた筈の足枷は錆び、朽ちかけ、既に用をなさなくなっていた。
半獣であるということを抜かしても、誰もこの男に近づこう、などということを思わなかったろう。
狂気の色を宿した瞳の鷹が得物に襲いかかってくる前に、魔力を媒介させる魔道書も持たずにペレアスは魔力を解放した。
全身が悲鳴をあげ、指先からは血が噴き出した。
『破壊しろ、そして、喰らい尽くせ、その存在が一点もこの世界にあった痕跡など、残すな』
闇の精霊はペレアスの純粋な破壊の願望に狂喜した。彼らは、「器」の都合などは考えなかった。ただ解放を望んだ。そして、破壊を望んだ。
魔力を解放してから、しばらくのあいだ、立ち上がる事すらも、出来なかった。
だが、目の前の光景だけが、ひどく現実的だったことを記憶している。半獣は消失していた。その存在の、痕跡までも、闇の精霊に喰らい尽くされた。ペレアスは老婆の仇を、討った。
二人目の養い親が、その様子を目の当たりにしていたーーというよりか、様子を探っていたのは、二度目の僥倖だった。魔道の才に優れた子を集めていたその老人は、地面に点々と残る血痕のみな残骸をじっと見つめるペレアスに、一言「ついてこい」とだけ言った。
明らかに不審な老人の言葉に逆らおう、とは何故か思わなかった。
老人は貧しかったが、ペレアスと似たような境遇の子らを何人か集めていた。いわゆる孤児院のようなものだった。魔道の才のある子らに、己の技を伝授し、志を植え付けることに情熱を傾けている、偏屈な老人だった。
そして老人は、老婆とは違う方法で、ペレアスに生きる事を教えた。
この国の成り立ちひいてはベグニオンという国を始めとしたテリウスの諸国の成り立ちから始まり、国のありよう、王のありよう、様々な知識を授けてくれた。忌まわしい記憶から逃れようとするがごとく、ペレアスは教えられたそれを砂漠の砂が水を吸うごとくに吸収していった。同時に老人は、闇の扱い方というものも、教えてくれた。