鷹の人2
兵士達は疲れて、しかしその士気は驚く程に高い。異様な光景だった。
篭城という最後の選択肢も奪われたというのに、彼らは自分たちの勝利を疑うそぶりはどこにもなかった。「王。ミカヤ殿がいる限り、我らは負けません」まっすぐな目でそう言ってくる将校もいた。そんな彼らに対し、ペレアスは微笑んで、肯定してみせた。
すべて嘘だ。
状況は絶望的だ。
辛うじて残された一筋の光も、か細い。
だがここでうろたえては、彼らの前で気丈に振る舞ってみせたミカヤの努力をすべて無駄にすることになる。
彼女だけではない。今までの戦で命を落としたもの、傷を負ったもの、彼らの思い、存在を無駄にすることにもなる。
久しぶりの酒と、充分な食料。その意味を知らぬ者は、このデイン陣営内に一人もいなかった。
ひととおり瓦解しかけたノクスの城内を歩いてまわり見た。埋伏を命じられていたものたちは、凍える夜中の戦場にある。
既に仮眠をとっている者もあった。皆、気負った様子もなかった。食料庫はまだ空ではない。ノクスの兵糧管理は流石に見事なものだった。
デインは他国と比べ年間を通して寒冷な気候で、また、昔から兵糧や物資管理に際しては優れた独自の技術を有していた。このノクスの守備長も、その手腕は確かであり、兵糧も物資も、豊富とはいえぬものの、それなりの数が蓄えられている。
ついで、城が瓦解したとはいえ、兵糧の殆どは地下にあり、その入り口が閉ざされなかったのは、まさに僥倖といってもよかった。
対する皇帝軍は、報告によれば兵糧に関しては矢張り不足しているとのこと。
兵糧を管理している兵達は異様な緊張感に包まれており、運び出しも慎重すぎるくらいであったという。
なにせ彼らは大軍団であり、その実に半数をラグズ兵が占めている。兵糧の消費も、ベオクのそれに比べ段違いだ。出来れば、兵糧は奪いたいところだろうが、何故かそういう手段を彼らはとらない。冬場に入り、略奪をしにくいという条件はあれど、そこまで多くの被害報告は入ってはこなかった。国内のどの領地でも、皇帝軍と見れば扉を、城門を閉ざしていたのだ。そこにあえて攻め込むような事をしている暇はないのだろう。さらには、積極的に略奪をするわけでもない。
甘すぎる、とペレアスは思った。
以前ならば当然だと思っていただろう。だが、その甘い認識がして悲劇を生んだのだ。絶望に直面すれば、考え方、物の見方を変えることなどはなるほど容易だ。本来ならば、このような事態になる前に悟るべきであったのは、言うまでもないが。
もとより、略奪を禁じたところで、彼らは国境を侵した時点で侵略者なのだ。宗主国とはいえ、ベグニオンとデインとの関係は、デイン建国当時から決して良いとは言えない。
そして勧告を無視し、こちらが書簡の返事をする前に国境を侵した。事を急ぎ過ぎ、ゆえにデイン軍が彼らを迎え撃つ正当性が生じてしまっている事に、或いは気がついてはいないのだろうか。
「ベオクとラグズ。親ラグズに傾きすぎた神使は、デインの事を何も理解してはいない…理解する気もない、ということか」
誰とはなしにペレアスは呟いた。小さな部屋の中、細く燃える燭台に灯されているのは、油を使ったものではなく魔道の光だった。風や雪の中でも決して消える事はなく、灯した者の力量にもよるが、およそ二刻ほどはもつ。
そっと手を伸ばして、光に触れる。熱くもなく、冷たくもなかった。あかりを灯す奇蹟は、祈りを力の根源とする司祭たちの光の魔道の、初歩のものだ。従軍した神官兵たちが、灯したものだった。
呟きに、応える声はない。
側近の青年のうち一人は既に休ませていた。元は傭兵でもあった彼は、明日こそ王を守り戦えるのだ、と張り切っていた。
燭台から手を戻し、机上でペレアスは手を組み、視線を落とした。古い木机は、その重ねて来た年代を語っている。ノクスは、古くからデイン王国の砦として、代々国境トレンガン長城を侵し侵入した者を、退けつづけてきていた。決して、侵される事のない、堅牢な要塞だった。地下水脈と、険しい地形。ここを突破されてしまえば、あとはやすやすとベグニオンへの侵入を許すのみだろう。
自分は一体どれほどの命を踏み台にしているのか。あえて数えるような真似は、止めていた。
兵たちと言葉を交わすついでに、突然合力を申し出て来たラグズ三名とも少し、話をした。ペレアス自身、彼らに対する偏見は薄れてはいたが、なくなった、とは言えなかった。だから、もう一度言葉を交わす必要があると思ったのだ。そうでなくとも、明日の戦いは熾烈を極めるであろう。皇帝軍にとっては、緒戦かもしれないが、デイン軍にとっては決戦だった。元々ラグズ連合側にいた筈の彼らを、手放しで受け入れる、ということは流石に出来ない。
ハタリの女王と白鷺の王子両名は、デイン解放の折も助力してくれていた。女王の側近オルグなどは、あれからずっとミカヤの身を守るように付き従っている。間諜という可能性はないのだが、その意図を知っておきたかった。
そしてもう一人。アムリタと親し気に言葉をかわしていた青年は、ゴルドアの竜王子だと言う。ペレアスの記憶が確かならば、彼ら竜鱗族は、他のラグズとは違い、そもそも国が永世中立、傍観の立場を建国以来貫いているはずだ。よりにもよって、その王族でもあるクルトナーガが、何故今になって助力する、などと言い出したのか。
結果、ニケらは純粋にミカヤを助けたいと願い、クルトナーガはアムリタの実弟であるのだという。そして三名とも、明日の決戦の折はデイン軍に所属し、デインの為に戦う、とはっきりと言い切ってくれた。
敵陣へと侵入してまで助力を申し出たニケとラフィエル。種族の戒めを破ってまで、デインを訪れたクルトナーガ。
ここまで来て彼らを疑いたくはなかった。特にクルトナーガなどは、戦場に立つのは初めてなのだ、と言い、震えていた。竜鱗族は、戦場に立ち力を解放することは滅多にない。その理由を、直接クルトナーガとアムリタの口からペレアスは聞き、考えた。
彼らの存在が、あるいはデインに奇蹟をもたらしてくれるのではないか、と。そして、彼らを呼び寄せたのは、他ならぬミカヤの存在があってこそだ、とも。
暖炉に火を入れれば、眠気が襲ってくるであろう事は容易に想像がついた。まだ、耐えられぬ寒さではない。無駄は一切省かねばならない。流石に兵たちにまでそれを強要するつもりはなかった。これは、ただの自己満足に他ならない。耐えたところで、何がどうなるというわけでもない。だが精霊を体内に宿して以来、なにゆえかこの身体は不思議なところで強かさを発揮するようになっていた。路地で筵にくるまり眠った夜もあったのだが、普通ならば凍死するところを、生きながらえていた。
なるほど、精霊は宿主を殺さない。
流石に肉体を切り刻まれ、あるいは心の臓を抉られでもすれば死ぬだろう。しかし、安易な死を、この身に宿る精霊すらも、許してはくれなかった。
感謝しなければならないかもしれない。精霊と契約した過去の自身に。この、忌まわしき力の源に。
篭城という最後の選択肢も奪われたというのに、彼らは自分たちの勝利を疑うそぶりはどこにもなかった。「王。ミカヤ殿がいる限り、我らは負けません」まっすぐな目でそう言ってくる将校もいた。そんな彼らに対し、ペレアスは微笑んで、肯定してみせた。
すべて嘘だ。
状況は絶望的だ。
辛うじて残された一筋の光も、か細い。
だがここでうろたえては、彼らの前で気丈に振る舞ってみせたミカヤの努力をすべて無駄にすることになる。
彼女だけではない。今までの戦で命を落としたもの、傷を負ったもの、彼らの思い、存在を無駄にすることにもなる。
久しぶりの酒と、充分な食料。その意味を知らぬ者は、このデイン陣営内に一人もいなかった。
ひととおり瓦解しかけたノクスの城内を歩いてまわり見た。埋伏を命じられていたものたちは、凍える夜中の戦場にある。
既に仮眠をとっている者もあった。皆、気負った様子もなかった。食料庫はまだ空ではない。ノクスの兵糧管理は流石に見事なものだった。
デインは他国と比べ年間を通して寒冷な気候で、また、昔から兵糧や物資管理に際しては優れた独自の技術を有していた。このノクスの守備長も、その手腕は確かであり、兵糧も物資も、豊富とはいえぬものの、それなりの数が蓄えられている。
ついで、城が瓦解したとはいえ、兵糧の殆どは地下にあり、その入り口が閉ざされなかったのは、まさに僥倖といってもよかった。
対する皇帝軍は、報告によれば兵糧に関しては矢張り不足しているとのこと。
兵糧を管理している兵達は異様な緊張感に包まれており、運び出しも慎重すぎるくらいであったという。
なにせ彼らは大軍団であり、その実に半数をラグズ兵が占めている。兵糧の消費も、ベオクのそれに比べ段違いだ。出来れば、兵糧は奪いたいところだろうが、何故かそういう手段を彼らはとらない。冬場に入り、略奪をしにくいという条件はあれど、そこまで多くの被害報告は入ってはこなかった。国内のどの領地でも、皇帝軍と見れば扉を、城門を閉ざしていたのだ。そこにあえて攻め込むような事をしている暇はないのだろう。さらには、積極的に略奪をするわけでもない。
甘すぎる、とペレアスは思った。
以前ならば当然だと思っていただろう。だが、その甘い認識がして悲劇を生んだのだ。絶望に直面すれば、考え方、物の見方を変えることなどはなるほど容易だ。本来ならば、このような事態になる前に悟るべきであったのは、言うまでもないが。
もとより、略奪を禁じたところで、彼らは国境を侵した時点で侵略者なのだ。宗主国とはいえ、ベグニオンとデインとの関係は、デイン建国当時から決して良いとは言えない。
そして勧告を無視し、こちらが書簡の返事をする前に国境を侵した。事を急ぎ過ぎ、ゆえにデイン軍が彼らを迎え撃つ正当性が生じてしまっている事に、或いは気がついてはいないのだろうか。
「ベオクとラグズ。親ラグズに傾きすぎた神使は、デインの事を何も理解してはいない…理解する気もない、ということか」
誰とはなしにペレアスは呟いた。小さな部屋の中、細く燃える燭台に灯されているのは、油を使ったものではなく魔道の光だった。風や雪の中でも決して消える事はなく、灯した者の力量にもよるが、およそ二刻ほどはもつ。
そっと手を伸ばして、光に触れる。熱くもなく、冷たくもなかった。あかりを灯す奇蹟は、祈りを力の根源とする司祭たちの光の魔道の、初歩のものだ。従軍した神官兵たちが、灯したものだった。
呟きに、応える声はない。
側近の青年のうち一人は既に休ませていた。元は傭兵でもあった彼は、明日こそ王を守り戦えるのだ、と張り切っていた。
燭台から手を戻し、机上でペレアスは手を組み、視線を落とした。古い木机は、その重ねて来た年代を語っている。ノクスは、古くからデイン王国の砦として、代々国境トレンガン長城を侵し侵入した者を、退けつづけてきていた。決して、侵される事のない、堅牢な要塞だった。地下水脈と、険しい地形。ここを突破されてしまえば、あとはやすやすとベグニオンへの侵入を許すのみだろう。
自分は一体どれほどの命を踏み台にしているのか。あえて数えるような真似は、止めていた。
兵たちと言葉を交わすついでに、突然合力を申し出て来たラグズ三名とも少し、話をした。ペレアス自身、彼らに対する偏見は薄れてはいたが、なくなった、とは言えなかった。だから、もう一度言葉を交わす必要があると思ったのだ。そうでなくとも、明日の戦いは熾烈を極めるであろう。皇帝軍にとっては、緒戦かもしれないが、デイン軍にとっては決戦だった。元々ラグズ連合側にいた筈の彼らを、手放しで受け入れる、ということは流石に出来ない。
ハタリの女王と白鷺の王子両名は、デイン解放の折も助力してくれていた。女王の側近オルグなどは、あれからずっとミカヤの身を守るように付き従っている。間諜という可能性はないのだが、その意図を知っておきたかった。
そしてもう一人。アムリタと親し気に言葉をかわしていた青年は、ゴルドアの竜王子だと言う。ペレアスの記憶が確かならば、彼ら竜鱗族は、他のラグズとは違い、そもそも国が永世中立、傍観の立場を建国以来貫いているはずだ。よりにもよって、その王族でもあるクルトナーガが、何故今になって助力する、などと言い出したのか。
結果、ニケらは純粋にミカヤを助けたいと願い、クルトナーガはアムリタの実弟であるのだという。そして三名とも、明日の決戦の折はデイン軍に所属し、デインの為に戦う、とはっきりと言い切ってくれた。
敵陣へと侵入してまで助力を申し出たニケとラフィエル。種族の戒めを破ってまで、デインを訪れたクルトナーガ。
ここまで来て彼らを疑いたくはなかった。特にクルトナーガなどは、戦場に立つのは初めてなのだ、と言い、震えていた。竜鱗族は、戦場に立ち力を解放することは滅多にない。その理由を、直接クルトナーガとアムリタの口からペレアスは聞き、考えた。
彼らの存在が、あるいはデインに奇蹟をもたらしてくれるのではないか、と。そして、彼らを呼び寄せたのは、他ならぬミカヤの存在があってこそだ、とも。
暖炉に火を入れれば、眠気が襲ってくるであろう事は容易に想像がついた。まだ、耐えられぬ寒さではない。無駄は一切省かねばならない。流石に兵たちにまでそれを強要するつもりはなかった。これは、ただの自己満足に他ならない。耐えたところで、何がどうなるというわけでもない。だが精霊を体内に宿して以来、なにゆえかこの身体は不思議なところで強かさを発揮するようになっていた。路地で筵にくるまり眠った夜もあったのだが、普通ならば凍死するところを、生きながらえていた。
なるほど、精霊は宿主を殺さない。
流石に肉体を切り刻まれ、あるいは心の臓を抉られでもすれば死ぬだろう。しかし、安易な死を、この身に宿る精霊すらも、許してはくれなかった。
感謝しなければならないかもしれない。精霊と契約した過去の自身に。この、忌まわしき力の源に。