鷹の人2
窓に向かい置かれた椅子に腰を落とす。側の机上にあるものは、魔道書と指揮杖。手を伸ばして魔道書を開く。
表紙の裏に、挟まっていた褐色に変じた小さな小さな花が、魔道のほのかな光により照らし出される。
触れてみた。乾燥しきったそれは、僅かに力を加えれば、粉々に砕けてしまうだろう。ペレアスは枯れ花をそのままに、表紙を閉じ、てのひらを乗せた。
「お師様。戒めを破る事、お許し下さい。力が、必要です。私の為ではない、今、デインの為に、この忌まわしい力も、希望の光になりえるのです」
孤児院といえど、穏やかな司祭や修道女が子供達を養い、その信心を養うような穏やかな場所では、それはなかった。
だが、孤児院の主の老人は、彼なりに子供達を愛していた。
老人はペレアスに、決して額の印を人には見せるな、と強く戒めた。
老人に見いだされた頃、ペレアスは言葉をほぼ失っていたのだ。目の前で養い親を喰らわれ、そして身に余る力を手に入れ、弱っていたとはいえラグズをその手で無惨に殺した。その事に、ペレアスの生来の弱く穏やかな心は耐えきれなかった。
老人はそのことも踏まえ、ペレアスをあまり表に出す事は好まなかった。とはいえ、他の孤児達のすることまで制限はしなかった。
所詮子供達の集まりである。その中でも年長でありながら、言葉を発する事はなく、身体も決して丈夫ではないペレアスだったが、他の子供たちはよく懐いていた。その頭の中にある知識もだが、何より穏やかな振舞いが、幼い子供たちにとっては厳しさばかり先立つ老人からの逃げ場になっていたのだろう。何か悪い事をすれば、ペレアスが彼らを庇った。子供達はそのことをよく理解していた。
そしてそれが、不幸な出来事のきっかけになってしまった。
凍てつく寒さがより一層厳しくなる、それは年越しの祭りを三日後に控えた、夕暮れ時のこと。
年越しの祭りとは、テリウス全土で行われる、女神の聖誕祭だった。全ての者の母でもある女神の生誕を祝い、感謝し、そして更なる息災を願う。場所によって具体的な手法は異なっていて、野の花を捧げるという風習は、特にデインに限ったものだろう。厳しい冬の時期に、それでも咲く花を、女神の祝福に他ならないという意味を持っている。それを入手し、祭壇に捧げる事が出来た者は、女神の祝福を受けるという伝説が、デインにはあった。
孤児院には、ペレアスの他にも何人か、老人に才を見込まれた子供達がいた。その中で、最年少の少女が帰っていない。
朝からの吹雪は大分おさまってはいたが、もうすぐ日は落ちる。彼女も生まれつき虚弱で、足にわずかに患いがあった。ゆえに、あまり外に出る事はなく、ペレアスに一番懐いていた子供だった。
老人は、一人で捜しにいった。そして残る子供達には、決して自分が帰るまでは外に出るな、と重ねて忠告をしていった。
孤児院のあるあたりは、貧民窟の中でも決して治安の良い場所ではなかった。変わり者が多く、気が触れたものなども徘徊することもある。だが、手に入りにくい品を入手しやすいーー闇市の立つ場所でもあり、どうも孤児院の経営はその闇の商売からの金銭でなっていることを、ペレアスだけが知っていた。そしてこの年越しの祭が行われる時期は、ことさらに治安が悪化しがちだったのだ。窃盗が横行し、大事にはいたらぬ犯罪もそこかしこでおきていた。年越しの祭を終え、女神が地に降り立ったその瞬間を、聖地の方向を向き祈る事で、一年の罪が払われるーー儀式的な意味合いをもつその祭は、どこかしら歪んだ形で、このネヴァサ貧民窟にもまた訪れるのだ。多少の罪を犯そうとも、年越しの祭の前後であれば、懺悔するだけで許される。それを逆手に取った犯罪が急増する時期だった。ゆえの堅い忠告だったのだが、当然ながらそんな言葉通りにじっとしている事が出来る子供ではない。ペレアスが制するにも構わず、数人が飛び出していった。残った子供たちは、逆に怯えたように、じっと動かなかった。開け放されたままの扉から雪が入り込んでくる。だが、それを閉めに行くものは、誰も、いなかった。
風雪が頬に触れ、ペレアスは我に返った。窓から、すきま風が入り込んでいたらしい。窓の側の床には、うっすらと白いものが積もっている。
手に携えた魔道書に、縋るように、そっと胸元に運ぶと、立ち上がる。窓を開けた。
闇の中、だがそこかしこで焚かれる篝火の照り返しを受け、ノクスの城塞はあかあかと燃えるようだった。視界の端には、煙があがっている。向こうに、おそらくこちらのおおよその兵力は掴まれているだろう。それでも、無駄と判りながらも虚勢を張る事をペレアスは命じた。こちらに、ゴルドア竜王子やハタリの女王が合力していることは、わかっているだろう。
追いつめられてはいる。だが、まだ、こちらに手段はある。そう、思わせる。
重だるい頭は変わらない。それでも思考は明晰だった。
辛い記憶を呼び起こす、時間はまだあると感じた。それは必要な事だった。
逃げない。それは、他でもない、ミカヤとの約束だった。薄れていた、と思っていたのは、ただの思い込みだった。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。
順を追って、記憶の糸をたぐり寄せる。ぼんやりと、記憶の底に沈んでいるものを、ゆっくりと。外気の冷たさは、あの冬と同じだ。
孤児院を飛び出したペレアスは、大人では入り込めなく、子供の独壇場となっている裏路地の廃屋、その先にあるわずかに開けた空間にまず向かった。
そこは、たまたま周りの建物が瓦解しているがゆえにぽっかりとあいた空間で、貧民窟の中でも薄暗いこの一帯で唯一日の当たる場所なのだ。それを、真っ先に見つけたのが、その少女だった。
他に考えられなかった。彼女が刻限通りに帰らなかった理由。それも、こんな日に。一時止んでいた雪は、高く哭く風を伴い、再び降り出している。
「さわぐんじゃねえよ。何、とって食おうってんじゃない。言う事をきけばあったかいところにつれてってやる。メシも喰わせてやる。あんなボロい建物なんかとは、おさらばだ」
「い、や!はなして!はなして!」
幼い叫び声と、しわがれた男の声が、ペレアスの耳に飛び込んでくる。
弾かれたように駆け出す。だが、息がすぐあがってしまう。虚弱な身体を呪いながら、それでもペレアスは駆けた。細い路地を抜け、廃屋を越えた。痛んだ床や朽ちかけた柱に肩や腕をひっかけ、あちこちに傷が出来ることも、気にしなかった。
「俺の言う事、聞けねえのかッ、このクソガキが!」
悲鳴。甲高い音がした。鈍い音。ふたたびの悲鳴。絹を裂くような、細い、長い、絶望の声がひとしきり続き、そして途絶えた。
「おいおい、お前が力任せにひっぱたいたら、こんなガキ死んじまうじゃねえか。せっかく捜しつづけて見つけたってのに、まったくお前ってやつはよ……」
「ケッ、別に構いやしねえさ」
走った。悲鳴はもう、聞こえない。
胸が押しつぶされそうになるのは、苦しいからなのか。
それとも不安からなのか。
漠然とした恐怖からなのか。
「ったく、手間、かけさせやがる」
走って、肺が呼吸の限界を伝えても、走った。