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楽園

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穏やかな世で
永き泰平の礎となるべきこの世で
お前が生きるにはどうすればいい。








 胸の内に名もつけられない燻りを抱えたまま、元親は碇槍を滑らせて戦場を駆けた。毛利の砲撃を受けた場に残したあの二人はどうなったのか――それを思えば焦燥に歯軋りが漏れる。
 風を切り裂く速さで突き進みながら求める姿を探し、ついに荒れ果てた戦場に佇む黄金色の後ろ姿を見つけた時、元親は知らず安堵の息を吐いた。そして、同時に違和感を覚えた。
 その場に在るべきもう一人の姿が見当たらない。
 総大将同士の一騎打ちに巻き込まれるのを避け、互いに割り振られた戦場で戦っていた兵たちもまた、戦の終焉を悟って駆けつけ始めたのが遠目に見えた。主要な将を失い総崩れとなった西軍への追撃を始めた兵も多くある。凄まじい勢いで地を滑り、誰よりも先に家康の元へと辿り着いた元親は、「家康!」と声をあげながら槍から飛び降りた。
「元親、」
 すぐに振り向いた家康は、自分へ駆け寄る元親の姿を眼にして強張っていた頬をふと緩めた。
「無事でよかった。……毛利を、討ったんだな」
 その眼に喜びだけではなく確かに悼む色のあることが、元親の燻りを少し浚ってくれた。
「……ああ。野郎共の仇は、とったぜ……」
 ようやく息をつくことができた元親は、滲むように笑ってみせた。ついでその笑みをかき消すと真摯な表情を浮かべ、問い詰めた。
「お前はどうなったんだ、……石田は、何処だ?」
 この亀裂が走り隆起した大地のどこかに倒れ伏したまま、見えていないだけなのか。どちらかが倒れるのだと覚悟していた、家康がここに立っている以上結果はわかっている。それでも問いかけずにはいられなかった元親は、家康が浮かべた表情を眼にして、違う、と反射的に思う。
 家康は笑った。普段のからりとした笑みとは違う、静かな微笑みでありながら、それは泣き顔にも近いような。
「できなかったよ。……元親」
 そっと零れ落ちたその声だけで、元親は家康の選んだ道を悟った。
「……どうしてもできなかった。どうしても……」
 囁く家康の背後には、勝利を確信して沸き立つ兵たちが迫っている。駆けつけた無数の眼はやがて、敗将の姿を探して彷徨い、ついには家康へとその行方を問うだろう。その時にこんな顔を晒し、故意にその命を拾いあげたと知れたらどうなるか。
 元親は即断した。
 音を発てて碇槍を地に突き刺し、怒りを込めた眼で家康を睨みつける。突然の反応に眼を見開いた家康と同じく、近づきつつあった徳川と長曾我部の兵たちまでもが元親が放つ怒気に対して怯えたようにその足を止めた。
「――“負けて逃げやがったあいつを追うんだろ”?」
 鬼は低い声音で事実と異なることを言う。家康が口を開こうとするのを制するように、元親は続けて言った。
「俺も協力するぜ、……だがな家康。あいつァ、殺して終いじゃ足りねえんだ。……四国壊滅の仇、始末は俺につけさせてくれねえか」
 それが家康ではなく凶王への怒りであると、納得した徳川の兵は緊張を緩めて息を吐いた。
 求めた仇は毛利と大谷であり、むしろ凶王のことは愉快げに話すことも多かった主を知る長曾我部の兵は、アニキ?と戸惑った声をあげた。
 そして家康は即座に元親の意図を悟り、それに合わせて応えた。
「……生かしてお前が沙汰するということか?……また新たな戦の火種となるかもしれない、それを許すことはできない」
 厳しい顔を向けた家康に対し、鬼もまた真っ向から視線を返す。
「もう凶王がまともじゃねえことなんざ誰でも知ってるだろうが、お前に敗れたあの男を懲りずに掲げる奴がいたら正気じゃねえぜ」
 言いながら口の端が曲がりそうになるのを何とか抑える。
 石田三成は折れかけの凶刃そのものだと、誰もが言うだろう。
 それでも元親はあの男が、時に静かに言葉を紡ぎ、憎悪と憤怒以外の顔を――いっそ幼いような顔を見せ、痛い程真っ直ぐな眼でただひとつを見据え続けた、そういう男なのだと知っていた。


 本来ならば首を獲られて当然の凶王を生かすため、東の将と西海の鬼は自軍の前で芝居を打ったのだ。
 自国の壊滅という痛手を負いながらも、同盟軍として決戦に貢献した長曾我部元親の願いを、東の総大将である徳川家康が温情を以って容認するという形で。
 「石田三成の処遇は長曾我部元親に委ねられる」という結末を、二人の将は対立すらしながらようやく合意したと見せかけて、半ば強引に押し通した。




§




 凶王を制し、豊臣の名を掲げた軍が瓦解したとて各地にはいまだに力を持つ勢力が存在した。家康はそのひとつひとつを丹念に懐柔し、籠絡し、時に捩じ伏せながらついには日ノ本を掌握し、盤石の体制を築いていった。その影には全国の至るところに潜む雑賀衆の協力もあった。
 雑賀の頭領は関ヶ原以前の不覚に対し思うところがあったらしく、本来ならば関ヶ原で終えたはずの契約を未だに継続していた。一度、そんなことを気にする必要はないのだと家康が告げた際、美しい鳥はとてつもなく冷やかな眼で家康を見たものだ。家康に対する義理立てというよりは、己の誇りの問題らしいと苦笑いをしながら悟った家康は、それ以来ありがたく雑賀の助力を受けている。
 そして気付けばあの関ヶ原から季節も幾つか廻った頃、家康の元に西の海から一通の書状が届いた。
 元親が四国へ戻って以来、初めてのことであった。
 それを知った家康は手早く至急の要件を処理し、珍しく自室に一人籠るとすぐにその文を広げた。
 空気に僅かに潮の香りが滲んだ、気の所為かもしれないそんな小さなことに自然、頬を緩めた。逸る心が落ち着きを取り戻す。らしくもなく緊張していた。
 あの後、三成を匿っていた忠勝を密かに元親の元へと向かわせ、元親が自力でその身を捕えたように見せかけた。家康はその場に居合わせてはいない。その後元親と正式な会見の場で改めて凶王の処遇を定めた時には、中央にいるにはあまりに危険な三成は既に四国に身を置いていた。西海の鬼にその身を委ねられたと知った男の反応自体も家康は知らないままだ。家康はその点に関しては総てを元親に預け、天下を平定するため駆け続けていた。

 おそらくは元親も、家康が落ち着く頃合いを見計らっていたのだろう。
 文は奔走を続けた家康を気遣う言葉に始まり、四国へ戻った元親が苦労をしながらもそれを周囲と笑い飛ばし合い、着実に復興の歩みを進めていることを節々で知らせた。豪放磊落な男に相応しい力強い文字が生き生きとその様を語り、家康も読み進めながら晴れやかな気分となる。友が壮健であることは何よりも嬉しい報せだ。
 そして最後の最後に、元親はようやくそのことに触れた。



作品名:楽園 作家名:karo