楽園
「見送りに行けなくて残念だったなあ!」
枕元に座り込み、快活な声で言う元親に、まだ寝たきりの三成は「別に必要ない」とそっけない言葉で応じた。その言葉はあくまで三成らしいだけであって、冷たさも憎しみも棘も、それを覆い隠した不自然さもない。これまでの上辺だけの落ち着きとは違う安定した姿だ。
三成が脚と腹に重傷を負ったその夜に、家康と三成は何を話したのか。元親は知らないが、翌日の朝に傷の具合を確かめようと押しかけた時にはもう、三成はこんな風に澄んだ顔をして眠っていた。
その傍らに座したまま、家康は静かに三成を見つめていた。
もう大丈夫だから。
家康はひと言だけそう言った。
そして多忙を極める天下人は、三成の容態が確かに落ち着いたと見極めて、本日四国を発った。元親はそれを見送り、帰って来ると同時に三成の部屋を訪れたというわけだ。
「こっから先は、簡単には会えねえぞ?」
「当然だろう、都から四国へそう頻繁に来てどうする。……残念だったな、長曾我部」
「俺かよ」
これまでにも軽口めいたやり取りをしたことはあったが、家康に関してこれほど気軽に話したことはない。元親は眼を眇めて三成を見下ろした。淡々とした表情は変わらないが、全体的に纏う空気が和らいだようにも思える。だからこそ、傷の痛みに時折眉をしかめる姿や、本来は白い膚が熱を持っていることが痛々しい。
「……なぁ、あんたどうせ無茶したんだろ」
緩い口調で問われたのは、傷を負った状況のことだとわかった。いまさらそこを追及された三成は元親を見上げ、小さく瞬く。
三成が傷を負った際、元親は何も問わなかった。即座に医者を呼び、総ての用意を整えた後は下手人に対する対応も三成に対する判断も総て家康に委ねた。その上で、家康は一晩中三成の枕元に控えていたのだ。何かが起こるだろうとは思っていたと、元親は眼が覚めた三成に対して平然として笑いかけたものだ。
「そんでも今あんたがこうしてんなら、あれは起こんなきゃいけねえことだったのかもしれねえが、……もう、すんなよ」
視線を逸らしながら呟く元親は、どうやら真正面からそう告げるのがむず痒いらしい。
――あまり無茶をするなよ、三成。
例えば戦を終えた時、血を浴びた己を見つめて苦々しくあの男が言った。
あの頃には軟弱なものとしか思えなかった言葉が、正しく意味を伴って三成へと届く。三成はその変化を自然に認めた。こうして都合の良いことばかりを思い返しながら、身勝手に我儘に生きるのだろう。傍らにいたあの男のように。三成の中で泣き叫ぶ獣を攫っていったあの男のように。
「……ああ、しない」
三成は傍らの男を見上げ、囁いた。
「……私は此処で生きる」
それがいつまで許されるものかはわからない。家康の意志が及ばずこの状況が元親の不利になるようならば、三成はすぐにも身を隠すだろう。あるいは首を差し出しても良い。だがそれは差し迫った時にだけだと己の内に刻み込む。
許される限り、此処でこの地を助けて生きる。
初めて生の決意を口にした三成を前に、元親は一瞬言葉を失った後、晴れ渡る青天のように清々しく笑った。
§
「三成!」
欄干に腕を乗せ、ひとり眼下の情景を眺めていた家康は、見知った男が同じ回廊を通り掛かるのを見つけて躊躇いなく名を呼んだ。豊臣のためにと日々唱えながら休むことなく働き続ける男は、暢気に佇んでいる家康に対して表情を厳しくしながら、それでも迷うことなく家康の傍へと近づいてくる。出会ったばかりの頃は、呼んでも無視されることが多かった。家康は頬を緩めて笑う。
「貴様、何をふらふらしている。手が空いているのならさっさと――」
「三成、ほら」
家康は緩やかな笑みを浮かべたまま三成へと示した。家康と三成が佇む場所からは、眼下に広がる開けた場所で、多くの兵とそれらを訪ねて来た人々が笑いさざめく姿を見ることが出来た。
誰もが皆、隣に在る者へと笑いかけ、戦の世にも確かに存在する平穏を愛しんで生きている。
「みんなが笑っている。……楽しいな」
三成には興味のないその光景を、宝物を自慢する子供のような無邪気さで指し示す。三成は家康が指す情景ではなく、他愛ないことに心底幸せそうに笑う男を眺めた。
「この笑顔を日ノ本総てに広げよう。な、三成」
「……くだらぬ……」
いつも通りの言葉を囁いた三成へと、家康はつい憮然として視線を向けた。だがそこで見つけた顔に、家康はわずかに眼を瞠ると、一転してさらに楽しげな笑みを浮かべた。
そう言いながらも三成の表情は、少しだけ柔らかい。
きっと以前であればわからなかっただろうかすかな違いを読み取れることに、少しくすぐったいような気持ちになり、家康はもう一度欄干の下へと眼を向けた。くだらないと言いながら、踵を返すことなく隣に佇む男に内心で告げる。
お前が。
血に濡れることなく、そんな風に和らいで過ごしていられる世を作りたいよ。
三成。
ワシの願いは叶っただろうか。
終