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月日が、時間が人を変えるという。
しかし、彼らは例外だった。彼らの愛は、そんな不完全で儚い類いのものではない。
だが―――それなら、この感情は何だろう？





「良くないな」

呟いた彼の吐息に、彼女は敏感に反応する。
現にペン先のタッチが乱れ、その用紙は彼女の手によって丸められ、ゴミ箱行きとなった。

「…ごめん。詫びの電話、入れておいて」

そう苦く指示を出し、彼は左の手のひらで額を覆う。そして、溜息をひとつ。

「…痛むの」

平坦に問いつつ、彼女は暗記している番号に電話を掛けた。
五分に満たない会話中、彼はもちろん、一言も発さない。それは、取引先との通話の最中であることよりも、単に彼の不調が元だった。

「いつも、の？」

丁寧に受話器を置いた後、彼女は質問を変えてみる。

「ああ…そうだ」

デスクを離れソファに沈む彼の顔色は酷い。
彼女は暫し躊躇するが、自身のスペースを離れると、キッチンへと向かった。

「今日…いや、毎年この日は、本当にろくなことがないよ」
「………」

無言の彼女に、彼は乾いた嗤いを投げる。それをただ、彼女は受け止めてやる。
そのくらいは、してやっても良いような心地が、近頃の彼女にはあったのだ。

「大抵は体調不良だ。他には、そうだな、去年なら刺されて病院送りになった」
「っ………」

仕度の手を一瞬止める。彼女が視線を上げると、彼は背もたれで首を反り返し、今度は右の手のひらで額を押さえていた。
痛みに一層研ぎ澄まされた眼差しと、自身のそれがぶつかる。

「ふふ…君のその表情（かお）、鏡で君に見せてやりたい」

嗤いで頭痛を誤魔化そうとする彼に、彼女は思いのほか低い音色で、嫌だと応えた。

「しないよ、しない。そんなこと、したくない」

逆さまの視線が、僅かに緩む。

「めんどくさい」

そう吐き捨てるようにあしらわれても、彼女は咎める気にならない。
眉間に皺を寄せ嘆息する彼に、何が面倒なのか、訊いてやるのは酷というものだろう。だから、

「それなら良いの」

彼女は静かに、作業を再開した。

「あー、あとね、過去にはこんなこともあったな！」

相変わらず間抜けた体勢で声を張る彼に、彼女は冷たい。

「その先は結構よ、大人しくしなさい」

聴きたくない話を、わざわざ聴くこともない。彼だって話したくないのだから。



痛みを和らげるといった力のあるハーブティーを啜り、彼は斜め前の一人掛けのソファに落ち着いた彼女を見遣った。
ティーカップの中身は、紅茶だ。

「どう？」
「ん…まぁ、それなり」
「他に仕事は？」
「…悪いけど、デスクの書類、お願い出来るかい」
「わかったわ」

そして、今一度訪れた静けさを咥内から喉元を降りる茶と共に味わうと、彼は微笑んだ。

「君は、大丈夫なんだね」
「え…？」
「今日は、痛くなさそうだ」

真っ直ぐに重なる視線は、互いに柔らかい。
それが何によってもたらされたのか、彼も彼女も、思わないようにしていた。

「…ええ、おかげさまでね」
「うん、僥倖じゃないか」
「大袈裟ね…」

呆れたようにカップに口をつける彼女を、彼は、見つめた。

「そうでもないよ。…そうでもないんだ」
「…かもね」

彼の間（ま）に、もしかしたら続いたかも知れぬ台詞を、彼女は想像さえしなかった。必要がない。
つまり、彼も決して、発したりしないのだった。

「貴方はさっさと休むべきね。食事の用意をするわ」
「君は？」
「病人は自分のことを気に掛けなさい。どうせ自分で自分を慰めるしか、貴方には出来ないんだし」

二人分のティーカップを下げるため、彼女は淡々と立ち上がった。

「ひっどいなぁ…」

クク、と口の端を上げ、彼は冷蔵庫を開けているだろう背に、ほとんど囁くように零した。

「やさしくしてよ」

けれどこの、五月蠅いか静寂に包まれているかの二極にある部屋で、その言葉を彼女の鼓膜は確かに拾っていた。

「食べられそう？」

だが、今の彼のそれに応じるのは癪で、彼女は触れようとしない。

「食べたら薬を飲むことね。男は痛みに弱いの。薬なしじゃ、貴方、くたばるわ」

そして、いつぞやのお返しのような物言いをした。
でも、そんなことを覚えているわけのない彼は、襲う鈍痛に小さく息を吐きつつ、「わかったわかった」と軽い響きで返す。
その語尾が少しだけ震えて、彼女は冷蔵庫を探る指を止めた。
迷うように折れた関節を、しかし、意思が貫き、彼女が食材を取り出し始める。





「おはよう、波江」

翌朝、ドアを開けた彼女を出迎えた彼は、笑顔だった。

「おはよう…もう、良いのかしら」
「うん、平気だ」

わざわざ自分を玄関で待ち構えていたらしい彼は、爽やかに、常より安穏とした気配でもう一度微笑み、彼女に背を向ける。

「…そう」

―こういうところが余計だと、彼女は思う。

「今日は？」

意味をなさないタイムカードを律儀に切りつつ問う。
すると、彼は既にコートを羽織っていて、少し急ぎ足で説明を始めた。

「やって欲しい書類は君のデスクに、処理して欲しいデータはもう入ってる。起動したら、あのフォルダから確認してくれ。手が空いた時で良いから、電話連絡を例の彼に。午後は君で足りるクライアントが二、三組来るから、適当に応対して」
「了解しました」

そこに、自主的な作業と、何故か家事を加えるのだ。それが彼のいう、秘書の仕事である。
彼女はもう、疑問を解決することを放棄していた。

「急いでいるのなら、出ていて構わないのに」

擦れ違いざま彼女が掛けた言葉に、彼は振り返り、片眉を上げる。

「八…いや、七時には帰るから。いってくる」

噛み合わない会話と表情。だけど、

「…いってらっしゃい」

二人は、それで良いような心境に至っている。



多少疲れたように息を吐く彼がドアを開けると、腕を組み壁に寄り掛かっている彼女に迎えられた。

「おかえりなさい、臨也」
「ただい…ま」

それはおそらく初めてのことで、彼は素直に驚きの声を上げる。

「へぇ…！どうした風の吹きまわしかな」
「別に」

簡潔な返答が逆に心地良く、彼は口の端を上げつつ、すたすたとキッチンに引っ込む彼女を見送った。

「悪いね、遅くなった」
「ちょうど良かったわ。もうすぐ出来るところなの」
「今日は何？」
「………」

応じない彼女など珍しくもなく、彼はコートを脱ぎ、ソファに腰掛ける。
そうして、肩の力を抜く彼の眼前に並んだのは、明らかに豪勢な手料理の数々だった。

「…どうしたの、君」
「何が？」
「誠二君と何かあった？」
「いいえ」

あくまで淡白な彼女に対し、彼は流石に、声のボリュームを上げざるを得ない。

「なあ、説明してくれないとさぁ」

冷蔵庫を開けている彼女に、彼は首を傾げて尋ねる。

「食べるの、こわいんだけど！」
「………」

解答の代わりに彼女が運んで来たのは、生クリームを苺で彩ったデコレーションケーキのホールサイズ。

「もしかして、昨日ってさ…」

砂糖の塊のプレートには、チョコレート色の綺麗な筆記体で「Happy Birthday」と書かれている。