黄昏の王
成歩堂は、厳しい目をしていた。その眸の真剣さに、御剣はまるで法廷で裁かれているような感覚を味わっていた。それでも、彼にとって、法廷に立たない理由を言うわけには行かなかった。まだ、彼にとって時期ではなかったのだ。過去のことにして笑い飛ばしてしまえるほど、彼はまだ強くなかった。
「・・・なら、ふれるな。」
その思考の結果出てきたのは、全く持って陳腐な拒絶の言葉だった。御剣は自分のあまりの情けなさに自嘲の気持ちが隠しきれなかった。
「どうして?・・・・・・お前があの男のクローンでしかないから?それとも・・・・・ぼくがお前の心の傷に土足ではいりこんだ、と思っているから?」
「・・・・・頼む。答えたくない。」
御剣は拒絶の言葉だけを、さらに重ねた。最後は哀願するような口調になる。成歩堂は、それに憐れむような表情を浮かべる。御剣はその表情に、いいしれぬ痛みを感じて眉を寄せた。
成歩堂は星影のいった「たとえ解決したとしても、事件は終わらない」という台詞を思い出していた。あのセンセイも無為には生きていないようだ、と彼は思う。実際序審法廷は終了した。狩魔の自供という驚くべき結末によって。いつになるかはわからないが、本審も終わるときがくるだろう。しかし、それで御剣は納得するだろうか、と成歩堂は自問した。その自問の結果は、成歩堂には自明だった。
すべてを奪われて、御剣怜侍という人間は揺らいでいる。まるで壊れ掛けた吊り橋を渡るように。そんな人間をあえて罪を裁く場に置くのは酷かも知れない。法廷という場で、彼が失ったものはあまりに多すぎたのだから。
しかし、だからといって一回検事となり、法廷という場所で戦うことを決めたからには、その場に立ち続けるのは義務であると、成歩堂は考えていた。ポーンだろうが、クイーンだろうが盤面から取り除かれるまでは絶対に引けない。弁護士も検事も黒の駒か白の駒かの違いはあっても、逃げることなど許されないのに。
成歩堂は、顔には出さないが、心の深い部分で逃げようとしている御剣に対して怒りに似た感情が渦巻くのを感じていた。
その感情を表に出さないように苦心しながら、成歩堂は言った。
「・・・・もういい。ごめんな、お前をいじめるつもりなんかなかったんだ。ただお前が悩んで居るんだったら、力になってやりたい、そう思っていっただけなんだ。」
御剣は何も言わなかった。ただ、苦悩するように眉を寄せる。成歩堂にはそれが泣き出す一歩手前のように見えて、あまり好きではなかった。
御剣にとって、奪われたもの、というものに今対面する男も含まれていた。成歩堂の状況は、まさに彼にとってあの事件さえなければ手に入れられたかも知れない理想のひとつだったからだ。真実に真摯に向かっていく態度。最後まであきらめず依頼人を信じることの出来る勇気。それを自らが被告人にされることでまざまざと見せつけられてしまった。
そして、それに対して自らが狩魔のもとでやってきたことは、自分の事だけしか考えない、なんと浅はかなことだったのか。
だが、狩魔は悪くない、ただ彼の本文が罪を断罪する完璧さにある。ただそれだけのことだ。それに傾倒してしまった自分が悪いのであって、狩魔には何も罪はないはずだ・・・・ただ、父親を殺し、生倉を殺害しろと命じた、あまりにも重いそれ以外は。そう彼は考えていた。
彼にとって本当につらかったのは、それに傾倒せざるを得なかった自分の弱さが悪いのであり、憎いと言うことだった。しばしばその嫌悪の渦に飲み込まれて、どうしようもなく消えてしまいたくなることがある。それが最近ではその傾向が強く表れるようになった。
御剣と、成歩堂の間には、いまや何ともいえない緊張感のようなものが存在し、それがあまりに重すぎて、双方とも言葉を発するのをためらっていた。ただ様々な感情を眸に託して見つめ合うだけだ。2人にとって、普段ならば沈黙などどうということもないのだが、このような理解の伴わなかった沈黙というのは得意ではなかった。
どれくらいそうやって沈黙を守っていたのか、御剣にも成歩堂にもわからなかった。その沈黙が唐突に薬缶の笛の音によって破られた。異様に間抜けな笛の音が給湯室から漏れ出て、事務所の中に響いた。
成歩堂は、盛大にため息をつくともたれかかっていたソファから離れて、給湯室に向かった。ドリッパーの中にフィルタとコーヒーをしかけて、お湯を注ぐ。注いだ瞬間からコーヒーの香ばしい香気が湯気とともに立ち上った。
御剣は、何気なく窓の方を見遣った。ドアの開いた所長室の窓から見えるのは、息苦しいほど隣接したホテルだけなのだが、今見えるものはそれだけではなかった。いつの間にか寒気は増し、鈍色の空から白い雪が舞い落ちてきていた。
彼は、吸い寄せられるように所長室の窓に近寄っていった。窓をがらり、とあけると左手を虚空にさしのべる。彼の息は急激に入り込んできた外気に冷やされて白く曇った。
彼の骨の太そうな指に繊細な雪の結晶がつもり、そして一瞬にして消える。そのさまがもの悲しいように見えて、御剣はただそのままの姿で雪を見つめていた。
「・・・黄昏れてんじゃないよ、御剣。」
雪を見つめる御剣の真後ろでいきなりそんな声がした。驚いて振り返った彼の視界は今度は白い陶磁器で埋まる。
コーヒーで満たされたマグカップを差し出したのは他でもない成歩堂だった。彼は片方のコップを御剣に押しつけるように渡すと、所長室のデスクにいささか不作法に腰掛け、コーヒーを一口すすった。黒目がちの大きな眸が、まるで子供のようにうれしそうに雪を見つめる。2人はまた沈黙のまっただ中にいた。しかし、先ほどのような緊張感はなくなり、どちらかといえば心地よい類の沈黙が、あたりを満たした。
「寒いと思ったら、ついに雪が降り出したな・・・・。都会に降っているのに、汚れても居ないな、この雪は。」
「そうだね。」
成歩堂は同意を示した。御剣は成歩堂に倣ってコーヒーを飲もうとして、何も持っていないと思っていた右手に違和感を感じた。視線を雪から右手に移す。彼の右手は未だに黒のキングを握りしめていた。御剣は成歩堂に気づかれないくらいにかすかに眉を寄せた。
そのままそのキングは、御剣のスーツのポケットに収められた。御剣はその存在を強く感じながら両手でマグカップを包み込むように持って、中の褐色の液体をすする。何ともいえない香気が彼の鼻腔をくすぐる。どこか上品でシックなこれは、もしかしたら前所長の趣味なのかも知れない、と御剣は何となく思った。
雪は、その降り方を強め、いつまででも東京の汚れた空気の中を舞っていた。しかし、御剣のポケットの中にある黒のキングは、御剣の熱を受け止めてかすかにぬくもっていたのだった。