黄昏の王
御剣の不安をよそに、法廷のことや、日常的な些末ごとを間に入れながら盤面は緩やかに進んでいった。外面上は穏やかに時間が過ぎていく。御剣はそれを感じて初めて、時間とはあまりにこちらに優しくないのだ、と思わざるを得なかった。
そして、大分盤がすっきりとしてきたところで、ついに盤面は終局を迎えた。成歩堂はポーンを相手陣の中に入れ、プロモーションだ、と宣言した。
成歩堂のクイーンはまだ存命だったので、取られたルークを逆さにたてる。
そして、先ほどプロモーションしたポーンを指さす。その指は滑らかに滑って御剣の黒いキングの上で止まる。彼は静かに宣言した。
「御剣、チェックメイトだ。」
御剣は、数瞬間チェックをはずそうと考えたが、一つも名案など浮かばなかった。ゆるゆると息を吐き出し、ソファにもたれかかる。腕を上げ目を覆うようにして、唇の端を歪めて笑った。
「・・・・私の負けだ、成歩堂。しかし、まさかプロモーションしたポーンでチェックメイトとは・・・。」
成歩堂は曖昧に笑うと、ソファから立ち上がった。給湯室へと向かい、薬缶を火にかける。
御剣はしばらく作業をする彼の手元を見ていたが、ふとチェックメイトされた黒のキングを手にとってまじまじと眺めた。彼の骨の太そうな指が、キングのラインを緩やかにたどる。
御剣は、そのままキングを蛍光灯の光にかざすようにした。いつの間にか給湯室から戻ってきた成歩堂は、御剣の掛けるソファの背にもたれかかって、彼の持つキングを一緒に眺めていた。
「・・・まるで、あのひとみたいだ。」御剣は聞こえるか聞こえないか位の声でそういった。
成歩堂には「あのひと」が誰の事なのかすぐにわかったが、あえて何も口を挟むような事はしなかった。ただ冷淡に彼の様子を眺めている。御剣は、思いをはせるように目を細めた。その表情はまるで泣き出しでもするかのように気弱で、常の彼が見せるような傲慢なほどの自信にあふれた姿とは似ても似つかないのだった。
御剣は心の中の言葉を探り当てるようにひとことひとことゆっくりという。
「そう、最初はよかった。盤面は誰にも平等で、あのひとの力も認められた。・・・・でも、こんな不確かな事ばかりの世界で、それでも完璧であろうとするなんてそれこそ嘘に嘘を塗り固めて武装するしかなかったんだ・・・・。
盤面は当然それを赦さなかった。そして、追いつめられた彼は、不当な方法で相手方の駒を葬った。だがそれでも彼の中では終わりではなかった。今も、終わりではないはずだ。・・・・たとえ一兵卒に斬り殺されても。」
成歩堂は自らを「一兵卒」と呼ばれたことに対して、何も言及しようとはしなかった。彼は自分の立場をよく知っていた。40年間無敗の帝王を倒したのは、いろいろな人の手助けを借りた、新米弁護士でしかなかったのだから。彼は、それこそプロモーションしたポーンのようだった。そう、まさにあの時天啓のように頭によぎった千尋の声がなかったとしたら、あの男を追いつめることなど敵わなかっただろう。
千尋の事を思い出したと同時に、成歩堂は彼女の不在を強く感じた。ポーンに最後に力を与えたのはまさに千尋と真宵の姉妹だった。そう、彼女たちは最強のクイーンたちだ。彼は白いクイーンを見つめた。すっきりとたつそれに、いつでも正義を信じた元所長の彼女のイメージを重ね合わせた彼は、ふと気づいた。御剣が失ったものの一つが、自分の失ったものと良く似通っていることに。だが、御剣の失ったものは、自分の失ったモノとは違い、自らの力に変えていけるようなものではない、と彼は結論づけた。
「・・・・・そういや、狩魔とお前って、何から何までそっくりだと思ったんだ。千尋さん・・・・綾里弁護士殺害事件の時は、もっと似ていたかな。狩魔のロジックとやらは確かに師匠と弟子ならまあ似るだろうけど・・・・・ぼくも千尋さんに影響されたところは大きいし。けどさ、お前の場合、動作までトレースしたみたいにそっくりだった。最初狩魔を見たときにそう思ったよ。」
成歩堂は理論的に相手を説き伏せるときのように淡々とその言葉を口にした。ほんとうは似ているなんてものじゃない、まるで遺伝子であらかじめ決められていたクローンみたいだ、と彼はそうとまで思っていた。彼は寂しげな表情を浮かべた。喪失感というものを強く意識したからだ。
「それなのに・・・あれだけ傾倒していた人間を取られてさ・・・・お前さ、狩魔なしでこれからどうやって生きていくつもり?」
「・・・・・君には関係ないことだ。」
成歩堂の質問は非常に彼の繊細な部分に響いたらしく、御剣はわかりやすい拒絶の言葉を返した。成歩堂は冷ややかな視線を御剣に向けた。にらまれた彼は、蛇ににらまれた蛙のように押し黙る。それを良いことに、成歩堂は心の中でわだかまっていた言葉をついに表に出すことを決意した。視線と同じく、内容にしては感情をあまり含まないような声で、それを告げる。
「そうやって。・・・・・・そうやってすべてを隠して15年も連絡絶ったアホがいたけど。正直へこむんだよね。そういうことされると。ぼく、もう必要ないのかなあとか・・・。」
「そんなことはない!」
御剣は思わず、といった感じで大声を出した。成歩堂は小さな声で「・・・声、大きい。」というと、眉を寄せた。御剣は端的にそれに謝罪する。成歩堂は軽くため息をつくと、落ち着いた様子でふたたび話し出した。
「・・・・別に、狩魔がお前にとってどんな存在だった、とかそういうことを聞きたいんじゃない。そんなことはどうでも良いんだ。それこそお前が盲信的に奴を神とあがめていようがどうしようがぼくには関係ないことだからね。それに・・・・・・依存しようが、どうしようが人間生きていけるもんだろ。そんな説教じみた台詞で、お前を困らせるつもりも毛頭ないし。」
「では、何を聞きたい?」
御剣はどこか苛立ったような口調で言い募った。成歩堂がおそらく意識もしないで言った『関係ない』の台詞が、御剣の心にかすり傷を作る。自分はこれほど冷たい言葉を成歩堂に投げていたのか、と彼は激しく後悔していた。成歩堂は顔色をわずかに曇らせた御剣を見下ろしながらもっとも言いたかったことを明るみにした。
「依頼がこない限り動こうにも動けないぼくと違って、お前はいつだって担当する公判なんか転がってるはずなのに。・・・・なぜ、法廷に立たない?お前の仕事がなんだったか忘れた訳じゃないんだろう?」
その指摘に、御剣は今度は完全にたたきのめされた。逃れようのない追求から、それでも逃げようと必死で言葉をひりだす。
「・・・・それは・・・・・いえない。」
「いえない?・・・それは、狩魔に関係したことだから?」
「・・・・・。」
成歩堂はますますその責めるような口調を強めた。御剣はもう反撃さえもあきらめたように黙りこくった。
「知ってるよ。今や『狩魔豪』の名前を検察庁の関係者は毛嫌いしてる。でも、たぶんそれは不祥事になるべくふれてほしくないだけであって、それ以上のものじゃない。」