安定 天球07
不安と、望みと。
すべて、呑みこむことも、できるだろうか。
安定
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殻/2
あるとき、ふと。声をかけた。
「ジェイド」
森の中のことだった。
朝の光は燦々と注いでいるのだろうが、この黒い森の濃い色をした枝葉は、それらをまるで砕くように、ただ細かく涼しげなばかりの木漏れ日に変えて、彼らへと振り落とす。
陰の消えることのないその小道から、整然とした石畳へ、その境で、ただ、思い出したから。
「先に行っていろ」
「レーラァ」
「すぐに追いつく」
他愛もない、用事だったろう。ほんの数分。
毎朝のロードワークは、すでに男と少年と、二人の生活の中に染み付いていて、男が少々目を離しても、支障はなかろうと、判断したのだ。
土を踏んで、きびすを返す、その裾に、わずか、少年の指が触れて、
男は、それにまだ、気づかなかった。
土を踏む柔らかい音が森の中にのみ込まれ、けれど、石畳を蹴る軽い音は響かずに。
少年は立ち尽くす。
男は、振り返らなかった。
木々に遮られ、頼りないばかりの光すら弾く、クロムの輝きを宿した瞳が、それを追う。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
立ち尽くしたまま。
弛緩したように、力なく身体の両脇に下ろされたままの、ほそい腕の先。
しろい指が、一度だけ、ゆるく握られる。
ぬくもりのない、裾だけに、触れた指。
硬質な眼差しを、男をのみ込んだ森の奥へと向けて、少年はただ。
立ち尽くす。
ふわりと、握りこんだ指に、薄い口唇を当て、黒い森の奥、邸へと続く道へと視線を定めて。
しずかに、にこりと笑って。
無邪気に、師の言いつけに、背いた。
少年が、見上げる。
幾重にも重なる梢。
枝が風にさやぎ、擦りあわされた厚い葉の立てる音が
うねりのように、緩急をつけて、少年の耳を騒がせる。
見上げる、黒い森。
それが、少年の天球だった。
一本、踏み固められた黒い土が森の中に道を引き、
それを覆い隠すようにこそ、木々は枝を垂れる。
重く閉ざされたそれらを
どうにか凌いでこぼれ落ちてきていたわずかな陽光は、今は、あかく。
ぽつりぽつりと、ましろい肌に当たる光が変わってゆくのを、
無感動に受け止めていた少年は
ふと。
振り返り、まるで何か、を囁かれたひとのように、
全身を緊張させ、遠くを見遥かすような瞳で、音を、追った。
「 」
うねりのような葉鳴り。
「はい」
まるで、その葉鳴りに応えるように、少年はつぶやき。
黒い土を踏み固めながら、歩き出した。
森の奥。
この黒い天球の真中に在る、古めかしい邸、へと。
ブロッケン、という名を冠する血族集団は、けして小さなものではない。
むしろそれは、欧州にあってはもちろん、世界でもそれと名を知られた集団であり、当然、それなりの資産、というものを持っている。
そんな一族の総領に生まれながら、ブロッケンJr.は飢え、というものを良く知っている。
それは、唯一の弟子に出会う以前、すべてを見失っていた時期に馴染んだ感覚だった。
飢えていた、と言っても、別段、資産を食い潰してしまった、というわけでもない。
20年以上に渡って表の世界に出てこなかったとは言え、「ブロッケンの総領」、というわけで、入ってくるものはある。
ついでに言えば、いくら酒に溺れようと……いや、だからこそ、彼が酒食以外に費やす金銭などはないに等しく、また、いくら超人とは言え、呑める酒には限度がある。
にも関わらず、何故……と言えば、何のことはない。
ただ単に、面倒だったからだ。
調理はもちろん、食料を調達することも、果ては咀嚼して飲み込むという動作までも、すべて。
彼にはひたすらに煩わしく、どうでもいいことに思えていた。
酒を呑んでいれば熱量だけは補給できるし、酔っていられる。
それだけで良くて、それだけが心地好くて。
怠惰にソファに寝そべり、足元に転がした酒瓶だけを連れに、一月近くも過ごす、ということも珍しくはなかった。
それでも、その酒も、いつかは尽きる。
そして、酔いが醒めてしまえば、途端に身を支配するのは、恐ろしいまでの、恐ろしいと思う意識すら眠らせてしまうほどの、倦怠感。
栄養失調、脱水症状。
いくら超人と言えど、摂るものも摂らないでは、身体が保つ道理がない。
まして、彼は。
指一本動かすのも億劫な身体と、朦朧とする意識を持って、そんなとき、彼は決まって、鏡を見た。
白皙の肌からは、限界まで血が引き、まるで屍蝋のようで、そこに浮かぶべき静脈すら、存在を見失って。
健康な艶は失せ、乱れた髪の奥からは、瞳だけが、覗いて。
飢餓に満たされているくせに、もう何も見ていない、濃紺の瞳だけが。
食いつきそうに、どうでも良さそうに、自分を見返していた。
その顔が、本当に、「あの人」にそっくりで。
いつも、何かに飢えていた、「あの人」と同じ顔、で。
ブロッケンJr.は、かすれた咽喉で、哄笑せずにはいられなかった。
そうして、飢えているのか、いないのか、それともどうでもいいのか、それすら忘れ果てて。
全身の力を使い尽くすまで笑って、そうして、それから。
彼は、食べものを摂るのだ。
飢えて、飢えすぎて、食物の存在すら忘れた胃の腑に、無理やり、それらを送り込む。
欲しいとも思わぬのに、吐き気すら覚えながら、ゆっくりと、ひたすらに。
そして、眠る。
酔いの他に、それを癒すのは、午睡みだけだと言いたげに。
―――死んでもかまわないのだと、思っていたのに。
それでも、彼は、生きてきた。
自らを追い詰めようとも、追い落とすことだけは、けして、しなかった。
それが、何故なのかは……今となっては、分からないけれど。
だからこそ、今、ブロッケンJr.は、相対していた。
きっと、あの頃の自分と似た……そして、「あの人」と似た、飢えた瞳を眼窩に嵌め込む、この少年と。
少年は、男と出会ったころより、飢えた目をしていた。
それはもちろん、肉体的かつ即物的な、それゆえに切実な飢えもあっただろうが、それよりも。
執拗に食い下がり、拘った、「強くなること」。
それへの飢えだと、男は見ていた。
だから、男は少年を受け入れた。
けれど、少年の翠の瞳は。
過酷な鍛錬に耐え、「強くなる」という欲求を満たし始めながら、なお。
その飢えたいろを褪せさせることはなく、男を射て。
それどころか、強く、少年がなればなるほど、その力を増す翠の瞳は、現実に圧力すら、持ちそうで。
すべて、呑みこむことも、できるだろうか。
安定
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殻/2
あるとき、ふと。声をかけた。
「ジェイド」
森の中のことだった。
朝の光は燦々と注いでいるのだろうが、この黒い森の濃い色をした枝葉は、それらをまるで砕くように、ただ細かく涼しげなばかりの木漏れ日に変えて、彼らへと振り落とす。
陰の消えることのないその小道から、整然とした石畳へ、その境で、ただ、思い出したから。
「先に行っていろ」
「レーラァ」
「すぐに追いつく」
他愛もない、用事だったろう。ほんの数分。
毎朝のロードワークは、すでに男と少年と、二人の生活の中に染み付いていて、男が少々目を離しても、支障はなかろうと、判断したのだ。
土を踏んで、きびすを返す、その裾に、わずか、少年の指が触れて、
男は、それにまだ、気づかなかった。
土を踏む柔らかい音が森の中にのみ込まれ、けれど、石畳を蹴る軽い音は響かずに。
少年は立ち尽くす。
男は、振り返らなかった。
木々に遮られ、頼りないばかりの光すら弾く、クロムの輝きを宿した瞳が、それを追う。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
立ち尽くしたまま。
弛緩したように、力なく身体の両脇に下ろされたままの、ほそい腕の先。
しろい指が、一度だけ、ゆるく握られる。
ぬくもりのない、裾だけに、触れた指。
硬質な眼差しを、男をのみ込んだ森の奥へと向けて、少年はただ。
立ち尽くす。
ふわりと、握りこんだ指に、薄い口唇を当て、黒い森の奥、邸へと続く道へと視線を定めて。
しずかに、にこりと笑って。
無邪気に、師の言いつけに、背いた。
少年が、見上げる。
幾重にも重なる梢。
枝が風にさやぎ、擦りあわされた厚い葉の立てる音が
うねりのように、緩急をつけて、少年の耳を騒がせる。
見上げる、黒い森。
それが、少年の天球だった。
一本、踏み固められた黒い土が森の中に道を引き、
それを覆い隠すようにこそ、木々は枝を垂れる。
重く閉ざされたそれらを
どうにか凌いでこぼれ落ちてきていたわずかな陽光は、今は、あかく。
ぽつりぽつりと、ましろい肌に当たる光が変わってゆくのを、
無感動に受け止めていた少年は
ふと。
振り返り、まるで何か、を囁かれたひとのように、
全身を緊張させ、遠くを見遥かすような瞳で、音を、追った。
「 」
うねりのような葉鳴り。
「はい」
まるで、その葉鳴りに応えるように、少年はつぶやき。
黒い土を踏み固めながら、歩き出した。
森の奥。
この黒い天球の真中に在る、古めかしい邸、へと。
ブロッケン、という名を冠する血族集団は、けして小さなものではない。
むしろそれは、欧州にあってはもちろん、世界でもそれと名を知られた集団であり、当然、それなりの資産、というものを持っている。
そんな一族の総領に生まれながら、ブロッケンJr.は飢え、というものを良く知っている。
それは、唯一の弟子に出会う以前、すべてを見失っていた時期に馴染んだ感覚だった。
飢えていた、と言っても、別段、資産を食い潰してしまった、というわけでもない。
20年以上に渡って表の世界に出てこなかったとは言え、「ブロッケンの総領」、というわけで、入ってくるものはある。
ついでに言えば、いくら酒に溺れようと……いや、だからこそ、彼が酒食以外に費やす金銭などはないに等しく、また、いくら超人とは言え、呑める酒には限度がある。
にも関わらず、何故……と言えば、何のことはない。
ただ単に、面倒だったからだ。
調理はもちろん、食料を調達することも、果ては咀嚼して飲み込むという動作までも、すべて。
彼にはひたすらに煩わしく、どうでもいいことに思えていた。
酒を呑んでいれば熱量だけは補給できるし、酔っていられる。
それだけで良くて、それだけが心地好くて。
怠惰にソファに寝そべり、足元に転がした酒瓶だけを連れに、一月近くも過ごす、ということも珍しくはなかった。
それでも、その酒も、いつかは尽きる。
そして、酔いが醒めてしまえば、途端に身を支配するのは、恐ろしいまでの、恐ろしいと思う意識すら眠らせてしまうほどの、倦怠感。
栄養失調、脱水症状。
いくら超人と言えど、摂るものも摂らないでは、身体が保つ道理がない。
まして、彼は。
指一本動かすのも億劫な身体と、朦朧とする意識を持って、そんなとき、彼は決まって、鏡を見た。
白皙の肌からは、限界まで血が引き、まるで屍蝋のようで、そこに浮かぶべき静脈すら、存在を見失って。
健康な艶は失せ、乱れた髪の奥からは、瞳だけが、覗いて。
飢餓に満たされているくせに、もう何も見ていない、濃紺の瞳だけが。
食いつきそうに、どうでも良さそうに、自分を見返していた。
その顔が、本当に、「あの人」にそっくりで。
いつも、何かに飢えていた、「あの人」と同じ顔、で。
ブロッケンJr.は、かすれた咽喉で、哄笑せずにはいられなかった。
そうして、飢えているのか、いないのか、それともどうでもいいのか、それすら忘れ果てて。
全身の力を使い尽くすまで笑って、そうして、それから。
彼は、食べものを摂るのだ。
飢えて、飢えすぎて、食物の存在すら忘れた胃の腑に、無理やり、それらを送り込む。
欲しいとも思わぬのに、吐き気すら覚えながら、ゆっくりと、ひたすらに。
そして、眠る。
酔いの他に、それを癒すのは、午睡みだけだと言いたげに。
―――死んでもかまわないのだと、思っていたのに。
それでも、彼は、生きてきた。
自らを追い詰めようとも、追い落とすことだけは、けして、しなかった。
それが、何故なのかは……今となっては、分からないけれど。
だからこそ、今、ブロッケンJr.は、相対していた。
きっと、あの頃の自分と似た……そして、「あの人」と似た、飢えた瞳を眼窩に嵌め込む、この少年と。
少年は、男と出会ったころより、飢えた目をしていた。
それはもちろん、肉体的かつ即物的な、それゆえに切実な飢えもあっただろうが、それよりも。
執拗に食い下がり、拘った、「強くなること」。
それへの飢えだと、男は見ていた。
だから、男は少年を受け入れた。
けれど、少年の翠の瞳は。
過酷な鍛錬に耐え、「強くなる」という欲求を満たし始めながら、なお。
その飢えたいろを褪せさせることはなく、男を射て。
それどころか、強く、少年がなればなるほど、その力を増す翠の瞳は、現実に圧力すら、持ちそうで。