望郷
「言うのが遅れたけれど、ありがとう、クリオネ。オレを心配して来てくれたんだろう?」
「あ、っと……」
心配。
自分は、ジェイドを心配していたんだろうか? 彼の、何を?
「ありがとう」
思ってもみなかったことに礼を言われて、戸惑う自分に、もう一度繰り返して、目の前の同期生は、笑顔のまま、軽く首をかしげた。
「それじゃあな。また明日も早いし。おやすみ、クリオネ」
「あ、ああ。おやすみ……ジェイド」
くるり、と背を向けて、歩み去る、この相手の。
どこでもない、銀の鎖の揺れる、左手首を、どうしてだか、目で、追ってしまって。
それは、彼が角を曲がって視界からその姿を消すまで、変わらなかった。
宇宙空間にあるHFからは、地球と違って、月、というものは見えない。
いや、月に似た、恒星の光を反射する丸い衛星ならばあるのだが、それは別段ひとつ、と言うわけでもなく。
惜しみなく広がる大小さまざまな星々の中、それは、かえって存在感を薄くさせてしまう。
地球から見る月のように、絶対の存在として夜空に君臨する銀盤は、この空には、確かにないのだ。
「……レーラァ」
自室の寝台に転がり、見るともなしにそんな夜空を眺めながら、ふとジェイドはあの月の下、故郷のベルリンにいる人への呼びかけを、漏らす。
頭の下に敷いていた左腕を目の前に掲げれば、そこにはいつもと変わらぬ銀の鎖が、かすかに部屋に灯された明かりを弾いて、涼やかに光っていた。
しゃら、と。
それが立てる、あるかなしかの音すら紛うことのない沈黙を室内に降ろして、ジェイドが思うのは、夜毎変わらぬ、故郷のこと。
郷愁 ( ホームシック ) 、などと言うものではない、そんなものなどよりも余程に強い、彼の地への感情。
―――あの人は今、どうしているだろうか。
―――あの邸は今、どうなっているのだろうか。
―――あの森は、今も、変わらず。
「……レーラァ」
つめたく、けれど、肌からうつる体温を吸ってあたたかい、鎖にかすか、口唇で触れる。
―――これで、満足か?
―――……ja,Lehrer……
つめたい鎖に、遠い距離を知り、あたたかな鎖に、離れぬ想いを確かめる。
鎖に触れた余韻を楽しんでいた口唇が、ふと、笑みを浮かべた。
―――それは……何か、意味があるのでしょう?
思い出される、先ほどの同期生の、少しばかり混乱したような、言葉。
そして、嘲りと興味を持って、この鎖を衆目に晒した、もう1人の……厳つい姿をした、同期生。
関係ない、と言い、おかしいか、と問うた。
彼らは、まるで思ったとおりの反応を返してくれたけれど。
くつくつと、ジェイドは咽喉を鳴らす。
あれも、ただの……言葉遊び。
言うまでもなく、この鎖は、ただひとり以外の、誰にも関係ないものでしかないし、本来なら、自分にそぐわないのも、また、事実。
けれど、それを言った自分が、おもったのは。
ただ、確かめたかった。言葉にして、すこしでも、現実に、留めて。
あの天球を、己れのものなのだと、そのことにすこし、酔いたかった。
関係があるのも、この鎖が相応しいのも、ただひとりのひとで。
確かめた、その事実が、限りなくいとおしかった。
月のない夜空を、見上げるようになっていかばかりか。
そして、あとどれだけで、再びあの月を、見上げることになるのか。
考えて、銀鎖にくちづけながら。
もう一度、ジェイドは。
それを、己れの腕に飾ったひとのことを、おもった。