求望
あたたかい日差し。
やわらかな風。
みどりの葉陰。
もしも、望むのならば。
求望
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森を抜ければ、街まで続く石畳が、整然と彼らを迎えてくれて。
長いこと、朽ちた葉や、倒れた木をも飲みこんできた黒い土から踏み出せば、硬い石に、かつん、と踵が鳴る。
さえぎるもののない陽光が、惜しみなく、降り注いでいた。
「いい天気ですね、レーラァ」
沈黙に耐え切れなくなったように、ジェイドがぽつりと、つぶやく。
困惑げに首をかしげたその髪は、常とは違い、穏やかな陽気の中にさらされている。
そのことに違和感と、不審とを感じ、彼は軽く頭を振った。
ちらりと視線をくれた先に、やはり見慣れない、銀色の髪に縁取られた、横顔。
レジェンド・ブロッケンJr.。
今の彼を見て、そうと看破できる者など、片手の指も余るほどの数しか、いはしないだろう。
常、身に纏う軍服も、コートも、軍帽をすら外した姿は、目を見張るほどに体格が良いとは言え、人間として在り得ないほどではないせいもあって、およそ格闘超人とは、見えない。
と言っても、そんなことを考えるジェイド自身、着慣れたコスチュームを脱ぎ、世間一般の若者とも変わらぬ服装に身を包んでいる。
そして、それは、他でもない師匠、ブロッケンJr.の命じたことだった。
低く、
『少し、歩くか』
と、たったひとこと。
それ以来、ブロッケンJr.は何も言葉を発そうとはせず、ただ、黙々と歩を進め、ためらいながらも、ジェイドはただそれに、着いていく。
落ち着かない。
あたたかな日差しも、やわらかな風も、萌える緑の葉陰も、何も、すべて。
知らない、ものだ。
わずかにこぼれる光、さやぐ音に知る風、濃く、くろい木々の陰。
それ以外を望んだことなど、なかったと言うのに。
慣れない日差しに己れの髪が輝くたび、不思議になる。
風が頬を撫でてゆくたびに、胸が騒ぐ。
薄く木陰をつくる若木の横を通り過ぎれば、不安になる。
ここは、違う。
違う、違う、違う。
けれど、これを、望んだ、示した、この人は。
陽光に輝く緑の草葉よりも深い、ゆれる翠の瞳が、わずかに高い、横顔を見上げる。
姿は見慣れぬものでも、その顔も、軽く引き結んだ口唇も、静かな眼差しも、常と変わるものではない。
けれど、揺れぬ瞳を見上げる翠の奥は、とうてい凪ぐものでは、なくて。
口唇を開きかけては、引き結ぶ。それだけを空しく、くりかえす。
ちらとも、それに視線を向けるものではないが、わかって、いるのだろう。
見上げる先で、苦くほころぶ、厳しい口唇。
「いい天気だな」
ほころんだまま、ゆっくりと、先のジェイドの台詞を鸚鵡に返す、乾いた口唇。
「……はい、レーラァ」
そこから目を離せぬまま、浮かされたように、ジェイドも返す。
すいと、ブロッケンJr.は、人を避けて身体をかしげた。
わずかに離れた距離も不安で、ジェイドは大股に一歩、詰める。
ひたすらに、師の顔を、仰ぎ見て。
「こんな日には、誰だって、散歩に出たくなるもんなんだろうな」
人込み。
見渡す視線の先など、どうでもよかった。
その藍の色だけを、無心に、追う。
人の憩う、緑豊かな公園。
けして大きなものではなかったけれど、そこは、そのまま閉じ込めれば、「平和」の典型、とも言えそうなほどに、安らいで。
そこに紛れ込むジェイドは、居心地悪く、師匠に身を寄せる。
―――もしも。
涼やかな水を噴き上げる噴水の傍らで、ようやくブロッケンJr.は足を止めた。
煙る水飛沫の向こうを見透かすように、藍の瞳を細め、佇む。
ジェイドの視線の先には、師匠が居り、その師匠の視線の先には、何が、在るのか。
幾重にも降り積もる不安が、ジェイドの脳を痺れ、させる。
―――こんな、ふうに。
穏やかな、中にあり、和らいだ表情(かお)をつくる師の姿など、知らない。
陽の下に、銀糸の髪をさらして、この人は。
自分は、こんなにも。
ふわりと、麻痺した意識から、現実感が、乖離する。
視線も、身体も、想いさえ置き去りに、感覚だけが、遠く、放れて。
ちがう。
ちがう、ちがう、ちがう。
ここはちがう。
このひとは、ちがう。
じぶんも、ちがう。
ちがう。
ここには、あたたかいひざしも、やわらかなかぜも、しずかなはかげも、しあわせなひとびとも、へいわなせかいも。
すべてがあるのに。
じぶんだけが、いない。
―――レーラァ。レーラァ、レーラァ。
ここを、オレは。
これを、あなたは、求めたのですか?
ならば。ならば、自分は。
「ジェイド」
吹き上げる水を追っていた視線に、ひたと見据えられる。
ゆるく引き結んだ口唇も、常人とも見紛う姿も、先とは何ら、変わりはなくとも。
厳然と、捉えて放さぬ藍の瞳が、それだけで。
乖離した現実を、そのままに、引き寄せる。
「ja,Lehrer」
知らず、紡ぎだされた声は、自分でも驚くほどに、鋭く、厳しく、響いた。
「ここは、平和だな」
「ja」
「喜ばしいことだ」
「……ja」
「だが、正義……いや、格闘超人は、その中に、安らぐことは赦されない」
「ja」
ふっと。ブロッケンJr.は短く息を継いだ。
閉じた両の瞼に、浮かぶのは、わずかな、苦悩。
―――もしも、あなたが、望むのなら。
「ジェイド」
「ja」
「この、平和な場所では、いくらの人がいようとも……どれだけの人とすれ違おうとも、その中で、俺たちは二人きり、だ」
常、身に着ける軍帽も、軍服も身に纏ってはおらずとも、ブロッケンJr.でしか……彼の師でしかありえぬ男が、やわらかく、自嘲を口唇に刻む。
見開いたジェイドの瞳からはクロムの輝きが、そして、薄く開かれた口唇からは、かすれたつぶやきが、こぼれた。
「……ja,Lehrer」
武骨な指が、伸ばされる。
出会った頃と変わらず、大きな掌が、ジェイドの髪の上を、滑った。
「―――もし。もしも、お前が、望むなら」
耳の後ろまで、辿った指に、視線を固定されて。
わずかに見上げる、藍の瞳の中に、翠の色がうつり込んで。
あの、黒い森の、色をジェイドに、見せつけた。
「この中に。この場所に。留まっても、かまわない」
わずかにこぼれる光、さやぐ音に知る風、濃く、くろい森の陰。
「……あなたは? レーラァは」
―――もしも、望むなら。
「俺は、その能がないからな」
するりと、視線が、身体が、想いが。
乖離した現実感を、取り戻す。
ジェイドは、わらった。