追憶
それは、いつのことだったのか、と。
まどろみながら、ミートは思い出す。
―――どうしてだ?
不思議そうなあの人の声は、こんなにも鮮明なのに、どうして。
その記憶は、こんなにも、遠い?
あれは、いつのこと。
たゆたいながら、ミートは思い出す。
追憶
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「あー、暑いっ!」
癇癪を起こしたような声が、聞こえた。
ちょうど、付き従うべき主がテリーマンやらロビンマスクやらと一緒に特訓を始めてしまって、超人委員会所有のトレーニング施設の一 角にぽつんと座っていたミートは、暇を持て余していて。
だから、その声の主を振り返ったのだ。
まだ、どこか幼さを留めたような声は、もう馴染みとなったブロッケンJrのもの。
もう二十歳に手が届こうかという年齢のくせに、大きくはだけた軍服の襟元を扇ぐ仕草が妙に、こどもっぽい。
そもそも軍服というものは、身体の防護を考えて厚く丈夫な布地で作られている上、気密性も高い。
そんな長袖、かつ詰襟の上着を着てトレーニングに励んだのでは暑いのも当然だろうに、と、ミートはくすくす笑った。
大きな声は上げなかったはずなのだが、耳聡くも聞きつけたらしい青年は、憮然とした顔をしながら、ミートの座るベンチの端に腰を下 ろす。
「何がそんなにおかしいんだよ?」
「いえ。ただ、ブロッケンJrさん、そんなに暑いんなら、最初から脱いでおけばいいのに、と思って」
現に彼の主であるキン肉マン始めほとんどの超人は普段からその鍛え上げた肉体を顕わにしていることが多いし、汗をかくに決まってい るトレーニングともなればなおさらなのだ。
それなのに、今さらのように上着から腕を抜き、肩に羽織った青年は、そのミートの言葉に、ああ、とかんん、とか、不明瞭な声を返す 。
ないよりはましとばかりに扇いで風を送っていた手をつと止めて、脱いだ軍服の襟章に、触れて。
「一応、これは……俺の身分を証明するモン、だしな」
その略綬を撫でる指を見るともなしに見上げて、ミートは、最近は思い出すことのなかった情報を、記憶の中から掘り起こす。
厳めしくも重々しい、その軍服の示す、彼の立場は。
「まあ、何かすることがあるわけでもないし、ここんとこは放ったらかしなんだけど、な」
それでも、これだけは脱ぐ気になれない、と。言って、笑った。
鍛えられ、信じられないほどの力を誇る指が襟を、袖を柔らかく辿るのを目で追えば、青年がそれをどう思っているのか、くらいのこと は容易に、知れる。
だから、ミートは思ったのだ。
「その服、ブロッケンJrさんにとっては、王子のマスク……みたいなもの、なんですね」
それは、とても大事なもので。けれど、少し…少しだけ。
「あー、まあ……そんなモンかもな。あいつみたいに、脱いだからって死ぬわけじゃあ、ないけどさ」
式典用のものとは違って、あまり手触りが良いとは言えない上着は、大切で、誇らしくて、そして、少しだけ、重い。
鍛えた身体には、何てことのない重み、なのだけれど。
「俺には、大事なモン。だよな」
それを当然のこととして受け入れた、少し照れた顔を見せる青年が、少し。
ミートには、羨ましかったのだ。
それを、笑って、当たり前の顔をして、身に着ける、そのことが。
「……けどまあ……何だ。試合ならともかく、さすがにトレーニングくらいで破いたり汚したりしちゃ、拙い、よなぁ」
けれど、わずかに目を細めて彼を見上げていたミートの中に、ふっと過ぎったそんな考えなどは、おかまいなしで。
「え? うわっ」
青年はニッと笑って見せて、いきなり、羽織っていた軍服を、ばさりとミートに被せる。
「なあ、ミート。預かっててくれよ。キン肉マンがいないってことは、お前、今暇だろ?」
狭まった視界をかきわけて、見上げる先には、快活で、開けっぴろげな、笑顔。
そんな顔を向けてもらえることが、嬉しくて、でも、それに笑い返しながら、今、自分はどんな姿になっているのか、と。
思考の隅に、考えてしまう自分が、ミートは嫌いだった。
仕方のないことと、諦めているはず、なのに。
浮かべることのない自嘲を心の中に刻んで、頭から被さっている軍服を、肩まで引き下ろす。
他の柔らかい布地のように途中で縒れて蟠る、ということのない硬い布地が、ミートの座るベンチを超えて、床までまっすぐに、彼の身 体を覆い隠した。
「……ミート?」
知らず、俯いたミートを、つい、と。
隣に座る青年が、覗き込む。
唐突に視界に入ってきた顔と、自分が俯いていたことに驚いて背筋を引きつらせれば、困ったような、曖昧な顔が、軽く傾いた。
「あ、はい?」
「もしかして、何か用事でもあったか?」
「いえ……どうして、ですか?」
「いや、何かさ……変な顔、してっから。悪かったかな、ってさ」
用事があるなら構わないんだ、と続ける青年の、普段は軍帽に隠れた瞳の中。
そこに映る自分の「変な顔」と、彼の瞳を覗くことの出来る自分に、また少し、泣きたくなって。
まるで被せられた軍服に押しつぶされるように、ミートは、俯いてしまう。
「……本当に、用事はないんです。ただ……いえ、あの、本当に」
「あ?」
「何でも、ないんです」
分厚くて、気密性に優れた軍服の中に、隠れてしまおうとでも言うように、身を縮めて。
ミートは、自分のことなど気にせずに、青年が早くトレーニングに戻ればいいのに、と思った。
いやに穏やかで、開けっぴろげな瞳が、軍服よりも、重くて。
息が、出来なくなりそうだ。
「……あー……なあ、ミート?」
ああ、きっと。この人は。
ちょっと困った顔をして、頬をかきながら。持て余しているに違いないのに。
目の前の、ぐずる幼子に、当惑してしまっているに、決まっているのに。
「……何でしょう?」
どうして。いつも通りに振舞えなくて。
どうして。いつもの顔が、つくれなくて。
どうして、涙をこらえているんだろう。
僕は。どうして。
「俺はさ、ロビンとかと違うから、何だ。そうやって言いかけられると、すっげぇ気になんだけど……」
す、と。
肩まで引き下ろしたはずの軍服がまた、ミートの姿を覆い隠す。
狭い視界の中、見えるのは誰も使っていないトレーニング機械だけで、聴こえるのは、ためらいがちな、青年の声だけで。
思わず瞬いた視界が、一瞬ぼやけて、すぐに澄んだ。
「なあ、ミート。どうかしたのか? 気になるだろ。言えよ」
まるで、この場所には、自分と青年しかいない、ようで。
錯覚だと、わかっているのに。
ああ、どうして。
「…………ブロッケンJr.さん……笑い、ませんか?」