追憶
この声が、届かなければいいと。思ったのも、本当だけど。
「笑わねえよ」
聞いてほしい。それもやっぱり、ほんとうなのだ。
「…………大きいな、と、思ったんです」
迷って、迷って、迷って。
ようやく出た、その言葉の足らなさが、自分でも、おかしかった。
「……何が?」
「この、軍服が、です」
「そりゃそうだろ? だって俺のだぜ」
「そう。なんですけど……その、何て言うか」
ぎゅ、と膝を握り締める。
浅くなっていた呼吸を、深く、継いだ。
「大きくて……それで。ずっと小さい自分が、情けなく。なったんです」
頬が熱い。熱くて、つめたい。
ぼやけたり、澄んだりする視界に嫌気がさして、瞳を閉ざした。
「僕は、王子たちとは……違うんだって」
乱暴に頬を擦って、ふたつ、深呼吸。軍服が厚くて良かったと、頭の片隅で思う。
そして、さあ、言ってしまえ、と。
「闘えないんだなって、思って……それで」
声に、少しだけ。明るさを混ぜた。
笑おう、と、唐突に思う。
笑って、そして。
ミートは、背筋を伸ばす。
それだけなんです、と、言って、最後にするために、口唇を塗らす。
なのに。
「……どうして、だ?」
まるでそこにいないように降りていた沈黙を、なかったことにしてしまうような、声。
あくまで開けっぴろげで、無頓着で、不思議そうな。
「…………え」
「いや、だからさ。今はミートは子どもだろ? 闘う必要なんかないだろ」
「………………いえ、あの……」
ひくり、と口唇が引きつった。
そんなに長い間生きてきたわけではけしてないけれど、明らかに初めての経験、だ。
「そうじゃなくて、その。だって僕はあくまで王子のセコンドだから」
「けど、キン肉マンだって、何十年も現役でいられるわけでもないし」
「僕は頭脳超人で……」
「ミートが頭いいのは知ってっけど、ならなおさら強くなれるんじゃねえのか? 頭脳プレーとかさ」
ずい、と、覗き込んできた青年の顔で、ミートの視界がいっぱいに埋まる。
からかうような目の色が、今にも笑い出しそうだった。
「お前、頭いいくせに、妙なことで悩むんだな。んなこと考えてっから、背ェ、伸びねえんだぞ」
かあ、と頬が染まる。
軍服の影で見えないことを祈りながら、目を逸らして、そうしながら、横目で青年を窺った。
「……そう、なんでしょうか……?」
ああ、どうして。
いつから、自分はこんなにも単純になってしまったんだろう?
笑い出したい衝動が、抑えきれなくなりそうだ。
「あのキン肉マンのお守りが大変なのは分かるけどよ、考えてばっかいないで、たまには身体でも動かしたらどうだ? そしたら絶対伸び るって……って、おい、ミート!?」
頬があたたかい。
こんなに視界は晴れているのに、止まらない。
「うん、そう……そうですよね」
止まらなくても、いい、なんて、思えてしまうのは。どうしてなのか。
「……何で泣くんだよ? つーか、笑いながら泣くなよ、ワケわかんねえ……」
戸惑って揺れていた青年の厳つい手が、迷った末に、軍服の袖を握って、ミートの頬をごしごし擦る。
無縫製素材の生地は、水分を吸うようには作られていなくて、顔は余計に汚れたし、頬は痛かったのだけど。
ミートは、それでも、嬉しかった。
「キン肉マンにでも見られたら、俺が泣かしたと思われるじゃねえか……って、俺が泣かしたのか? なあ、ミート」
ブロッケンJr.がさっきまで着ていた軍服は、硬くて、重くて、まだ少し汗に濡れていて、そして。
「違いますよ。ただ、ちょっと、何だかおかしくて」
乱暴に擦られて、赤くなった頬を上げて、ミートは笑う。
ああ、ほんとうに。
「ブロッケンJr.さん」
「あ?」
「ありがとうございます」
このひとに、話して、良かった。
「……俺は、何にも、してねえよ」
ぷい、と横を向いた顔は、あからさまに照れていて。
慌てて軍帽の鍔を下ろしていたけれど、そんなもの、ミートには関係なかった。
だって、ミートは。まだ、こんなに、小さいのだから。
「僕、頑張ります。いつか、リングに立てるように」
見えてしまう、瞳がゆっくり、笑みを浮かべた。
「おう」
ぽん、と軍服越し、置かれた手がゆっくりとミートの頭を撫でてくれる。
「大丈夫だって。お前なら、絶対……少なくとも、俺なんかよりは強い超人になれるさ」
見上げるミートに開けっぴろげな笑顔を寄越して、青年は立ち上がった。
さて、と呟いて、身体を伸ばす。
「だいぶ、休んじまったな。始めっか」
手近なトレーニング機械に近づきながら、首だけで、振り返って。
「それ、預かっといてくれな。これ以上汚すのも拙いし」
口唇の両端を、めいっぱい、吊り上げた。
「あ……はい!」
だから、ミートも笑顔を返す。
頬も、目も、きっとまだ、赤いままだけど、それでもいいのだ。
だって、預けられた、とても大事なもののはずの軍服は、確かに大きすぎて、重いけれど。
こんなにも、あたたかい。
「……僕も、いつか。大きくなったら」
向けられた背を。
そして見つめ続けてきた、これからも見つめ続ける、背を。
越すことは出来なくても、せめて、並ぶことは。
「……いつかじゃなくても。頑張らなきゃ」
まるで、背を押すかのように、あたたかい上着には、まだ、あのひとの匂いが残っている。
まるで、彼、そのもののように。
あれは、いつのことだったかと、ミートは思い出す。
ああ、何故、こんなにも鮮明に。
―――それ、預かっといてくれな。
あのひとの匂いすら思い出せるのに。
どうしてこんなにも、遠いんだろう?
まるで、もう戻ってこない、あの日のように。