プラセボ
「お前のそれは、錯覚と何か違うものなのか」
僕たちの関係は、そんな言葉から始まった。
プラセボ
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彼は言った。
「戦場での恋は錯覚が多い。何故ならば、動悸が激しくなり精神状態もまともではなく何かすがりつくべきものを常に求めているからだ。所謂吊り橋効果というやつだな」
ぎ、と体重をかけられたパイプ椅子が軋む。腕を組んで背もたれに身体を預けた彼は、いつも通りの少し不機嫌そうな顔に3%ほど眉間の皺を増量させて、じっとりとこちらを見ている。
面白くもない薀蓄を聞かされ、それに対する見解を述べただけ、というような、辞書を読み上げるのと何ら変わらない素っ気ないその言葉が、どうやら僕への返事らしかった。
ただひと言、好きです、と告げた、僕に対しての。
「そうではないかとは思っていましたが、やはり、信じてはいただけませんか」
肩をすくめるべきか落とすべきか、咄嗟に判断に困って、中途半端なままで苦笑だけを浮かべる。
いつも通りの、誰もが見慣れた表情をつくれているとは思うけれど、彼ならばそこに違和感を感じ取ることもあるだろうと、そんな期待を持ちながら。
「信じるに足る根拠が、俺にはない」
「僕の言葉だけでは、不足ですか?」
「不足どころの話じゃない。お前の言葉なんて、塵ほどの重みも厚みもないだろうが」
「それは随分と酷い言われようですね。いつもそんな風に思っていらしたなんて」
「誰のせいだ」
「はて、誰のせいでしょう」
「そんなだからだよ、お前が」
ぎゅっと、さらに眉間に力を入れて、それから彼はため息をついた。
とりあえず少し話をしないか、と、小さくつぶやく声。
「そもそもだ、古泉。恋愛感情とは何だ?」
「それはまた哲学的な質問ですね。私見でよろしければ」
「それを訊いている」
「そうですね。端的に言えば特定の相手に執着し、相手のすべてを欲することでしょうか」
「それは恋愛感情に特有の精神活動だと思うのか」
「違うでしょう。親愛であろうと友愛であろうと、執着と独占欲は少なからず発生するものですから」
「であれば、それらと恋愛との違いは何だ」
「僕に言わせたいのですか? 困った方だ」
「気色の悪い言い方をするな」
「それは失礼。そうですね。それらとの違いは、つまり、発情ということでしょう。親愛と友愛では発生しないもの。それは相手の精神ではなく、遺伝子を欲する衝動です。相手と自分とを混ぜ合わせ、分かつことなど出来ない形にして後世に残したいという情動です。精神などというあやふやなものの結びつきではなく、手に触れられる形での結合を望む、そんな幻想です」
「お前は男だな」
「ええ」
「俺も男なわけだが」
「そうですね。それが何か?」
「言ってて気付かんのか。同性である以上、そこに子孫繁栄に関する情動など、本来起こりようがないという矛盾をどうするつもりだ」
恐らくそれは、彼にとっては普遍の真実なのだろうと思う。とても理性的な人だ。そして聡明な人でもある。
大概のことを理屈で割り切ることが出来て、大抵のことを理性で納得することができて、それでいて、最後には感情による判断を下すことさえ出来るひと。
学校の成績が悪いだなんて、信じられないくらいだ。それさえ、何かの理由でもって為されたことなのではないかと疑ってしまうほどに。
そして、誠実なひとだ。
こんな僕の、普通の感覚の人間にしてみれば、世迷言とすら思えるような言葉にでもきちんと返事をしてくれて、あまつさえ、僕を理屈で納得させて、双方に傷が残らないようにと、そんな配慮さえしてくれている。
「矛盾、ですか?」
「矛盾だ」
だから、僕は、嬉しくなってしまって、そしてまた、辛くなる。
自分の希みが、決して消えはしないだろうことに。
そのことに、きっと彼が悩んでしまうんだろうことに。
「ところが、それが矛盾にはならないんです。と申し上げたら、どうなさいます」
「どういうロジックでそこに行き着く」
「簡単な話です。恋愛感情とは、「相手の遺伝子を欲する衝動」だと申し上げましたね。それは、そのまま今の僕に当てはまる。それだけのことなんですよ」
「だが、それは絶対に成就しない」
「成就しないから、欲することがない。そんなものは理屈にもならないと、あなたはすでにご存知のはずですが?」
「それは、」
「それに。欲する、という情動が求める形は、ひとつではないんですよ」
組んだ両手に顎を乗せて、微笑んで見せる。彼に気づかれないように。出来るだけ、彼を怯えさせることのないように。
隠し通せるものならば隠し通してしまいたかった情動を、溢れさせることのないように、彼との間にある安っぽい会議机を殊更に意識する。
「独占欲。それは、どんな形にしろ、愛に付随してくるものです。それはあなたも分かっておいでですよね。ならば独占欲とはつまり一体、どういうものでしょう?」
「そのまま、相手を独占したい、ということだろう」
「では、独占とは?」
「自分だけのものにしたい」
「そう」
得たり。と、心が蠢いた。成った。これで、彼は理屈という名で縛られた。これで彼は、理性という逃げ道を塞がれた。
あとは、たったひとつだけ。たったひとつだけ絡め取れば、彼はこの手の届く場所にくる。
「つまり、誰にも渡したくない。僕は、あなたの細胞遺伝子の欠片に至るまで、たったひとつでも、それが他人の手に渡るなんて許せない。これを恋愛感情と言わずして、一体どこにカテゴライズすればよろしいとあなたはおっしゃいますか?」
詰んだ。そう思った。
彼は理性的な人だから。理屈ですべてを捉えることの出来る人だから。
ロジックを積み上げてしまえば追い込める。それはほとんど確信だったのだ。
―――それ、なのに。
「……なあ、古泉」
「何でしょう」
「やっぱり、お前のその言葉には、穴がある」
やれやれ。そんな、彼お得意の台詞が聞こえてきたような気がした。
組んでいた腕を解き、耳の上を指の関節で押しながら、8割が呆れで占められた視線が寄越される。
その中に、僕の言葉に対する否定的な感情が見て取れて、大きく心臓が跳ねた。
何だろう。何を、僕は見落としている?
「それはおかしいですね。あなたが見つけたのは、どんな穴でしょうか」
「お前自身が言ったことだよ。古泉」
ふと、視線が逸らされた。
少し曇ったガラス越し、良く晴れた空の青さに目を細め、独り言のように、彼は言った。
「お前は。ハルヒが望んだからそうなった、超能力者。なんだろ」
ため息をこぼすように。
「お前の力はハルヒ絡み限定で、あの閉鎖空間とやらでないと基本的には発揮できない」
僕に、言い聞かせるように。
「そう……言いましたね」