プラセボ
どくりと、はっきりと鼓動の音が聞こえた。
鼓動? いや、違う。それは、僕の脳髄の中を駆け巡った可能性の悲鳴だ。
「そして、お前は言った。お前はハルヒの感情をある程度察することが出来る。トレース出来るのだと」
そんな僕になどおかまいなしに、彼は告げた。
今まで僕が慎重に進めてきた駒などおかまいなしに、ほんのただ1手、それだけで僕に王手をかける。
もう一度、僕に戻された視線は、窓の外の明るさに反発するように、苦々しかった。
「それは、本当に、「古泉一樹(おまえ )」の感情か?」
凝っと、観察するように、彼が僕を見る。表情。瞳。汗。顔色。そのひとつも見逃さず、僕の反応すべてを利用して、僕を追い詰めようと、待ち構えて。
応えて僕が浮かべたのは、やはり、いつもの笑顔でしかなかった。
癖のようなものだからだろうか。それとも、他に何も思いつかなかったからだろうか。
彼は、やはり聡いひとだ。
僕自身、気づかなかった……いや、気づきたくなかったそのことをいともあっさりと引きずり出してしまえるのだから。
「そう、ですね……」
だから。
そんな彼だから。
僕は。
「僕も、考えなかったわけではないんですよ。まさか自分が男性にこんな感情を抱くなんて思ってもみませんでしたし、ましてやあなたが相手だなんて、それこそ無意識下に切り捨ててしまってもいいようなものなのに。むしろ、そうすべきだと解っているはずなのに」
笑ってみせた。
聡い彼へ。
誠実な彼へ。
優しい彼へ。
最初から解っている。これは賭けだったのだ。何とも分の悪い賭け。チップは僕自身、負ければきっとこの先苦しみ続けるだろうし、勝ったとしても、今度は洒落ではなく世界の崩壊までのカウントダウン。
つまり最後の賭けだ。どうせなら、最後まで。
「戦場での恋は勘違いが多い。危険や苦難を共にした相手には共感が生まれるものです。それらは目の眩むような強い衝動を伴っていますが、同時に冷めやすく、また冷めた後は驚くほどに未練を持たない」
想いのすべてを込めて笑った僕に、彼は今日いちばんの、と言いたくなるようなしかめっ面を返してくれた。
いつも通りのようで、いつもとは少しばかり違う、彼の顔。
「でもそれなら。一生勘違いし続ければいいんですよ。問題が継続するかどうかということならば。ええ。少なくとも、この学校に、涼宮ハルヒのそばに存在し続ける限り、スリルがなくなる、なんてことは考えづらいものがありますしね」
「お前、自分で何を言っているか、わかっているのか」
「解っていますよ? そうでなければ、そもそも、口に出したりはしませんよ。そう、勘違いだからどうだと言うんですか。恋愛にしろ友愛にしろ親愛にしろ、愛には少なからず勘違いが含まれているものです。完全なる理解と理性なんてものは、それは愛ではない。そうは思いませんか?」
「待て。とりあえず落ち着け。落ち着いて話をしろ」
「落ち着けとはまた。無理ですよ、そんなもの。落ち着けるはずもないじゃないですか。あなたもご存知でしょう。この世界では、少なくとも僕にとっては、涼宮さんは神なんです」
言いながら、追い詰められていくのを感じた。
何だか泣きたくなる。気づきたくなかったものですね。自分自身のことなんて。
彼が僕を追い詰めているわけじゃない。いつものボードゲームと同じ。
下手な手しか打つことの出来ない、僕自身が、自分を追い詰めて逃げ道を塞いでいる。
困ったように唸る彼を前にして、衝動に駆られた。窓の外の空の青さが、嫌なものを思い出させる。
そう。理性も理屈もロジックも、すべてを取り上げられて追い詰められたのなら、最後に残る手はたったひとつだ。
ガタンと、パイプ椅子が錆びついた苦鳴を上げる。
「僕は今、その神に逆らっている。僕自身の存在意義にすら背を向けて。世界のすべてを擲ってでも欲しいと思ってしまうんです。錯覚だろうがトレースだろうが、もう、僕にとってはそんなことは瑣末なことに過ぎません。僕はただ」
理屈で割り切り理性で納得する、彼を。
それでも最後に絡め取るのは、結局、ロジックではなく感情だ。
震えないようにと、あらん限りの力を込めた指が、彼の肩に触れて、食い込む。
お願いだから、動いてほしい。
これが最後の賭けだから。
「あなたが欲しい」
言ってしまった口唇は、もう笑みの形をつくれなかった。
すべてを吐き出してしまえば、残るのは審判だけ。
神ではなくとも、その御前の扉の鍵を握る彼は、それを為す資格を持っている。
齎されるのが福音の世界であっても、崩落の塔であっても良いと、そのとき僕はそう思っていた。
心底苦々しげな彼の瞳が逸らされるのが先か、それとも肩に触れた手を払われるのが先か。
それとも万が一。
「……古泉」
「はい」
「正直な話、俺は、お前の話を信じる気には、まだなれん」
「そう、ですか」
「だが」
僕の中を侵食し始める真っ青な失望を、視線で絡め取るように、強く、彼は続けた。
「そこまで言うんだったら、俺に、信じさせてみろ」
「キョン君?」
「偽薬効果だろうが何だろうが、結果がそうであるのなら、それは確かに同じことだ」
そうして、彼は立ち上がる。
力の抜けた僕の腕は、自然、外れてしまったけれど、彼はそれを振り払ったわけではなかった。
それは、確かだった。
「キョン君、つまり」
忌々しそうに、彼は眉をひそめる。大きくため息をついて、やれやれ、と言った。
「つまりは、だ。保留だ。古泉」
呆然と中途半端に乗り出した格好で固まる僕を見下ろして、彼は不機嫌そうに、そう告げる。
うまく頭が働かない。
ええと。
つまり。
それは。
「本気なら、それが「お前の」本心だってんなら、俺に、証明して見せろ」
世界の、扉が開いた。
そのことに気づいたのは、彼が疾うに立ち去ってしまってからのことで。
その頃には世界を染めていたのとまったく同じ希望の赤に、僕の顔も染まっていた。
それが、つまりは、始まりだったのだ。