世界の理
神無き世界で、人はどう生きているのだろう。
ふとそんなことを考えて、古泉一樹は口唇に苦笑を刻んだ。埒もない。ほんの数年前のことがもう思い出せなくなっているなど、そんなふうに思考を持っていこうとでもしたのであろうか。
もちろん覚えている。日常の些細なことに喜んだり悩んだりしていた日々のことはきちんと記憶していて、その事実こそが、現在の古泉のモチベーションの源流だ。例えどれだけ実感が薄れたとしても、その過去を古泉が「過去」と認識する限り、そこに変化は起こらない。
それでも、言葉は廻る。
神なき世界で、人はどう生きているというのだろう。
知る前であるならともかく、知ってしまった後で、それでもなお、人は神など存在しないものとして、生きていけるものなのだろうか、と。
神無き世界の過去は、今は確かに―――揺らぎがないとは言えないが―――古泉の中にある。
けれど、未来は、未だ古泉には見えてこない。
見えぬまま、それでも足を踏み出そうとするこの存在は、まさしく愚者だ。
独りきり、聴くものとてない笛を吹きながら虚空に踏み出す、始まることのない世界(どこにも行けない道化師)。
そんな自分自身の姿を明確に意識しながら、あえて捉えようともしない曇った瞳が、ふと、この現実世界の景色、ずいぶんと急勾配の坂を映す。
途上、いかにも億劫そうに足を運ぶ一人の人間の姿に、微笑が浮かんだ。
奈落へ踏み出す、その役目こそが悦(よろこ)ばしいと叫ぶような、恍惚としたいろが瞳からこぼれ出る。
急いだ足を支える地面の感触が、一歩ごとに現実味をなくす。一歩近づくごとに、古泉は虚空へと嵌まる。
例え、その先に待つのが目覚めの鶏(とり)すらいない、無淵の世界なのだとしても、自分は道化て笛を吹く。
それが、
神亡き世界を希(のぞ)んだ古泉の選択だ。
ほら。
「おはようございます。 くん」
零の扉は、もう開いている。
000/根源の愚者 the fool
--------------------------------------------------------