大人の態度
さあ、夢を引きずり寄せよう。
子どもの条件
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淡く光るポイントに、爪先の形を成すデータの一部を触れさせる。
そこから緩やかに解ける0と1、拡散も収束もせず、ただデータの流れとなって+と-に示されるままに移動する。
それは「書き出す」よりも「写す」ほうが早く済むというそれだけであったとしても、単なるデータ量の問題なのだとしても、世界を構成する熱量として自身が認められている、そんな錯覚をすら起こさせる。
指先をイメージするデータの一片が終着を感知すると同時、電子が瞬く間すらなく組み立てられる数値。収束でなく、ただの整列。
その瞬間、取りこぼしも過ちも在り得ないと、誰が保証してくれるのだろう。
「視覚」と定義された記述の先に、限界までに長い波長の可視光線。
ああ、いや。クオークの流れすら見えるこの眼に、そんな区分はあまり意味はないのかもしれないけれど。
この身が「人並み」でさえあれば、この波長が極まるまで鮮やかにも見えるのだろうかと思えば、そのことが少しばかり残念にも思える。
これが「人の夢」だというのなら、それは何と儚いものだろう。夢の目指す先が現実だなどと、そんな皮肉にもならない莫迦ばかしさ。
それともそうまでして、この現実こそが最上とでも思い込みたかったのだろうか?
祭壇に自らを模した贄を捧げ、自身にお伺いを立てるというのか。
知らないけれど。そんなことは知らないけれど。
自分はそれを感謝すればいい、それとも恨みに思えばいい?
半端でありながら壊れることすら許されない。
それともこれは、慈悲なのでしょうか。
「―――どうした」
バグか正規のプログラムかも判らない思いを向けるのが、こうして「触れ」あえる相手だというのは。
種の保存の劣化複製(コピー)ですか、それとも その他を望ませないための防衛機構(セキュリティシステム )ですか。
与えられた人の似姿、知覚と錯覚する情報認識、変化(パラメータのブレ)を知らぬ設定(ハード)と、成長を義務づけられた自己定義(ソフト)。
一体、どこまでが許されたことですか。
一体、どこまでを望んでいいんですか。
どこまでも拡がろうとする情報(データ)の増大が、型となって軋む自己設定(アイデンティティ)という幻想に悲鳴を上げているんです。
「どうして、そんな顔をしている」
余計な設定を施されない冷たいデータの塊に、頭を身体を押し付けて、視覚情報をカットする。安心。ここは安心だよ。安心したいんだ。
ねえ、誰か早く、僕を肯定か否定(どうにか)してください。
現実に侵食される夢が現実に絡みつかないように、縛ってください。
それとももう、そんな資格も必要もないくらい、この0と1のつながりは壊れて、狂ってしまっているでしょうか。
「ロックマン、何とか言ってくれ」
ああ、夢という言葉で紡がれた、その名があまりに重過ぎる。