仮面舞踏会
グラハムは踊りながら舌を巻いていた。ビリーが想像以上に上手かったからだ。
知らなかった。そもそも彼がダンスを踊っている場面など見たことがなかったから、こんなに上手いとは思いもしなかった。
力強くリードされ、慣れない女性パートに戸惑うグラハムを上手くフォローしてくれている。
これで惚れない女子はいないのではないか。リアルで『ダンス初心者の女子』を体験しているグラハムには危険な麻薬だった。
ホールの音楽が止んだ。それと同時に、見物者たちからの拍手があがる。惜しみない拍手の雨の中、グラハムの感想は「もう終わり?」であった。
まだ踊っていたいなとビリーを見上げたが、彼は満足げに微笑んでいるのみだった。不満そうなグラハムを見て、今度はビリーが苦笑する。
「いやいや、君の身体が心配だから」
「えっ?」
「気づいてないだろ? 肩で息をしているよ」
「……えっ?」
そう指摘されて初めて、グラハムは自分自身を振り返ってみた。途端にあがってくる息、激しい鼓動を打つ心臓。疲労困憊な状態に、ふらりと足がもつれそうになる。
よろめくグラハムを、ビリーの腕がしっかり受け止め、それだけでホールの中から歓声が沸きあがっていた。
「……なんだ?」
「さあ? なんだろうね」
よくわかっていないグラハムに、ビリーも惚けておいた。彼を支えてあげながら、見物客の中にいたホーマーたちのもとへと歩き出す。
「おじさん、彼女がもう疲労困憊です」
「そのようだな。では私たちはお暇するとしよう」
「大丈夫?」
「……はい」
おばがグラハムの様子を覗き込み、心配そうにその頬を撫でていた。グラハムもその手を握り締め、どこか縋るような視線で互いを見つめ合っている。
ビリーは目の前で繰り広げられる倒錯的な世界に、目が点になった。なんだろう、このレズビアンな感じは。片方は男のはずなのに。
「ビリー、帰りはどうするかね?」
ホーマーに尋ねられ、ふと、現実に立ち返る。
「えっと……、その、彼女はどうするんですか?」
グラハムの予定を逆に聞いてみたら、おばが彼を抱きしめながら答えていた。
「彼女は魔法を解かなきゃだから、今日は私たちの家ね。あなたも来る?」
その誘いに、一も二もなく「はい」と言ってしまいたかった。実際に喉の奥まで出掛かっていたのだ。
けれどそれはできない。この夜の出来事は、一夜限りの魔法だから、ビリーは現実世界へと帰らなければならないのだ。
女神の待つ家へと。
「……いえ、帰ります。やることもあるんで」
「そう? 残念ね。あなた、本当にたまには顔を出しなさいよ。近いんだから」
「はい。今度ぜひ、必ず遊びに行きますよ」
社交辞令ではなく本心からそう言って、ビリーはおばと別れのキスを交わしあった。
「では、お前のマンションまで送ってやろう」
「いいんですか?」
「当たり前じゃない。私たちがホストなんだから」
そう言うとおばは抱きしめていたグラハムを、ビリーへと返してきた。まるで人形か何かのような扱いだ。
「あなたのマンションに着くまでは、あなたのそばへと置いてあげる。でもあなたのためじゃないわ。私は彼女の味方なの」
鋭い眼差しで見上げてくるおばの視線は、恐らく一種の挑戦状ともいえただろう。やはりこの人はスパルタだ。ビリーを決して甘やかさない。
「……胆に銘じておきますよ」
この先、グラハムを悲しませるようなことをしたら、きっとおばが飛んできて、ビリーを完膚なきまで殴り倒すに違いない。
大変な宿題を仰せつかってしまった。でも腕の中でウトウトと、半分くらい眠りに落ちているグラハムの姿が、それは決して夢や幻なんかではないとビリーに訴えかけていた。
今日のすべてが月の女神による魔法であったとしても、この身に刻まれた記憶、思い出はずっと残るのだ。
ビリーとグラハムの、二人の中に。
魔法が解けかかっている濃紺のドレスをまとった姫君の身体を抱きしめ、ビリーは最後の甘い記憶を頭の中へと刻み込んだ。
──僕は、答えを出さなくちゃいけないんだ。
背後の天秤が揺れる。
天上の残酷な女神と、一夜限りの月の女神。
どちらの腕にも短剣が握り締められたまま、ビリーが下す結論の行く末を、ただ静かに見守っている。
了