花月夜
長曾我部は単純に疑問に思って訊いただけだが、毛利は眦を鋭くして不快げな顔で長曾我部を見遣った。どこか苛ついていうようでもある。何故毛利がそんな表情をするのか分からず、長曾我部はただ突っ立って毛利の返事を待っていた。そんな長曾我部の視線に耐えきれないかのように、視線を脇へ逸らし、毛利はぼそりと呟いた。
「月が――今宵は満月であろう」
「ああ、そうだったな。でもそこにいちゃ見えねェだろうに」
「――五月蝿い。我の勝手ぞ。それより貴様こそ何をしに来た」
「おー、そうそう、居るんなら丁度よかったぜ」
誤魔化すように話題を逸らした毛利の問いかけに、長曾我部は思い出したとばかりに足元に置いていたものを持ち上げて、毛利に向かって捧げるように見せた。
「それは――」
毛利がそれを見て目を見張る。長曾我部の持つ深い緑釉の甕には、縁までいっぱいに土が盛られ、そこに零れんばかりに薄紅色の花を咲かせた枝が何本か無造作に突き刺されていた。花弁は幽けき月明かりを受けて宵闇に淡く浮かび上がり、霞のようでも幻のようでもあった。それは弥生も半ばを過ぎたこの時期に、ここにあるはずもない花。
「桜か」
「綺麗なモンだろ?流石にもうこの辺じゃ咲いてねェからよ、ちょっと伐ってきた」
長曾我部はさも何でもないことのように言ったが、城中の桜が全て青葉に覆われ花が咲いていた痕跡すらないこの時期だ、余程山の上高くまで登らねばこのように見事に咲く桜には出会えない。毛利はしばらく、長曾我部の持つ桜とその隣で得意そうに笑う顔を茫と眺めていたが、ふと顔を伏せた。はらりと落ちた栗色の髪で隠されて、長曾我部からはその表情は読み取れない。そして感情の篭らぬ声でぼそりと長曾我部を詰った。
「馬鹿めが。桜の枝を伐るなどと……梅ではあるまいし木が傷むではないか」
「え、そうなのか?そりゃ悪いことしたなぁ」
「やってしまったものは仕方あるまい。――長曾我部、少し待っておれ」
そう言って、毛利はすいと立ち上がり、奥の室へと消えた。月明かりを背にしていたため、陰になってやはりその表情は見えない。長曾我部はしばし逡巡した後、もう一度足元に甕を置き、庵の外を向いてその場に腰を下ろした。すると程なく戻ってきた毛利の足音が近づいてきて、振り返ろうと身を捩じらせた長曾我部の背中を蹴った。
「ッてェな!何しやがんでェ?」
「そこではない。あちら側へ行け――それも、忘れるな」
そう命じて、毛利は両手で何かを持ったまま、いきり立つ長曾我部を置いて縁側の角を曲がる。長曾我部はぶつぶつと文句を言いながら甕を抱え、毛利の後を追った。同じように角を曲がると、毛利が手に持っていた朱塗りの盆を縁側へと置いたところだった。盆の上には、同じく朱塗りの揃いの銚子と盃。
「そこに置け」
「お、酒か。用意がいいじゃねェか!」
酒と見るや長曾我部は上機嫌で、いそいそと抱えていた甕を酒盆の傍に置き、どかりとそこに腰を下ろした。主に断ろうともせず、さっさと銚子を取って盃を毛利へと差し出した。
「ほらよ」
「――いや、今日は宴で呑んだゆえもう要らぬ」
「そうか?――…じゃあ何で酒があるんだ?」
長曾我部がふと気付いて問うと、毛利は気不味げに眉を顰め、口を噤んだ。ふいと外へ逸らされた視線は、どう言うべきかを決めあぐねているようであった。そんな毛利に、長曾我部は何かに気付いた体で『あッ』と声を上げた。
「俺のためか!」
「何を――」
「そういや言ってたもんな、アンタ。『やはり来たか』ってよ。俺が来るの分かってたんだろ?今日は満月だし、月見酒ってわけか。風流じゃねぇか」
呵々と笑って長曾我部は、手酌で盃に酒を注ぎ、ぐいっとあおった。如何にも旨そうに息を吐くと、盃を盆に置いて、毛利の方へと手を伸ばした。毛利の耳の下から手を入れ、少し硬い髪を梳いてやるように指をくぐらせる。毛利は厭がるそぶりは見せず、ただどういう表情を見せるかを決めかねているような無表情で、長曾我部を見ていた。長曾我部は口の端を少し上げ、愛おしいものを見るように少し目を眇めて毛利を見る。
「待っててくれたんだろ?」
長曾我部の言葉に、毛利は薄く唇を開いて何かを言おうとして――閉じた。そうして月を見上げ、また視線を落として傍らの桜を見た。
「花見酒にもなるとはな。――今年の花の頃は忙しなくしていて、落ち着いて花を見ることもできなかったゆえ、こうして見ることが出来るとは思っていなかった」
毛利はそう言って、がさつで乱雑としか言えない活け方をされた桜をじっと眺め、薄く微笑んだ。めったに見せない毛利の柔らかい表情に、長曾我部は堪らず腕を伸ばす。毛利の腰に手を回して引き寄せると、挟まれた盆の上の酒器が擦れ合って音を立てる。毛利の顔を上向かせようとしたところで、毛利が何かに気付いたような声を上げた。そして急に長曾我部の腕からするりと抜け出して、桜の甕を両手で挟んで凝っと見た。
「おい、長曾我部、この甕はどうした」
「おいおい、今イイとこだったじゃねェか!甕がどうしたってんだよ」
「どこで手に入れた」
「黒田の野郎が送ってきた塩が入ってた甕だけどよ。何だってんだ?」
「名人の作よ。黒田め。本当の祝いはこちらか」
毛利はフン、と鼻を鳴らしたが、どこか楽しげに緑釉の甕の胴を撫でている。長曾我部はまたも黒田に邪魔された気がして、ケッと吐き捨てて自棄になったように何杯も酒をあおった。そんな長曾我部を横目で見て、毛利は揶揄うように言う。
「中身の塩はどうした。捨てたか売ったか。よく器を捨てなかったものよ。褒めてやろう」
「別に褒められたからって嬉しかねェや。器にゃ罪はねェからな。良いモンだって気がしたからよォ、丁度いいと思ってな」
「流石は海賊といったところか。物を見る目はありそうだ」
底意地の悪い毛利の言葉に拗ねたように、長曾我部は口を尖らせ、冗談めかして言った。
「そりゃそうだ。――アンタに惚れたんだからな」
「そうであったな」
やり返すために言った言葉を、あっさりと柳のごとく受け流されて、むう、と長曾我部がさらに唇を歪めた。可愛くねぇだのちったぁ照れろだのと口の中でもごもごと文句を言う長曾我部を構いもせずに、毛利はつと銚子と盃を取った。それを長曾我部が見咎める。
「何でェ、呑まねェんじゃなかったのかよ」
「今日は少しぐらい過ごしてもよかろう。――そなたが居るゆえな」
そう言って毛利は美しい所作で酒を注ぎ、ゆっくりと盃を口元へ運ぶと、くい、と一気にあおった。その姿をじっと見ていた長曾我部は、いつも毛利を覆っている堅い鎧が今日は少し緩くなっているように感じ、それ以上は何も言わず自らも更に杯を重ねた。何かと言えば角突き合わせずにはおれない二人を、似合わぬ穏やかな空気が包み、冷たい月の光が静かに照らす。不意に吹いた風が桜の枝を揺らし、零れた花弁が盃に落ちた。
毛利はその盃に酒を注ぐと、月を映して眺め、ひと息に呑んだ。