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篠原こはる
篠原こはる
novelistID. 11939
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平和島さんと僕

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平和島さんと僕


手ばかり見ていた。
街が悲鳴をあげるように、音を発していたとしても視界にうつるものばかりに気をとられいた。
宙に舞う有り得ない標識や自販機、街灯が飛び交っていても、それらを投げる手を見ていた。やたら美しい手だった。
どちらかといえば痩せた身体を、上背が高いので折り曲げている男。帝人が立っていた場所からは男がはっきりとよく見えた。
昔、学校からの鑑賞会だとかで美術館へ行ったことがある。そこで展示されていた作品を思い出させる手だった。有機物でできているのが信じられないほど、長い指は自在に動いてなめらかに物を掴む。仕草さえ美しく見えた。男の手をよもや、キレイと思うなどどうかしている。

手が網膜に焼きついたまま、鍵を開けて部屋に入ると、明りもつけずに何もない畳の上に転がった。訳のわからない疲労感が体中に広がってだるい。何とか身体を起こして、シャワーを浴びるために立ち上がった。
アパートから標識や自販機が飛んでいた場所まで、そう遠くない。歩けば十分程度といったところか。あれほど賑やかだった音はものの数分で収束し、あとに残った残骸が物々しさを漂わせるだけだった。それらを横目に眺めながら、どこまでも帝人の瞳は男の手を追い、思い出していた。
思い出す手が無性に恋しくて馬鹿らしくて、情けなくなりながら身体を洗う。なんであんなにキレイなんだと八つ当たりのように歯を磨き、どうしてどうしてと布団を敷いて突っ伏した。あの人がいけない、なんて毒づきながらもあの手を思い出しながら眠りについた。
携帯にメールが入ったのだろう、明かい画面が照らした時間は午後12時まえを知らせていた。

***

次の日、60階通りの交差点で運悪く信号につかまったところで、ふと視線の先に男が立っていた。
昨日、帝人のアパート近くで標識や自販機を投げていた男だ。白いシャツに黒いベスト、リボンタイでさえ噂通りの律儀さでバーテンダーの出で立ちは昨日と同じだ。あ、と帝人は声をもらした。どうしてそんな声がもれたのかは知らない。赤く光る信号機の色に、無意味に苛々した。
ようやく青く光った信号機を見ると同時に、男を視界にいれるが男はその場から動かずじっとぼんやり空を眺めていた。夕暮れにはまだ早く、空も明るい。都会の空は綺麗とは云いがたいが男には何か見えるのかもしれないし、ただぼんやり眺めたいだけかもしれない。つられて見上げた空は、やはり何もなかった。ただれた様な薄い雲が空に広がっているだけだ。戻した視線の先は、相変わらずただじっと空を見上げていた。男はなにかを待つみたいに佇んでいる。それは網膜についた鬱陶しい傷のようにも、遠い昔に馴染んだ染みのようにも思えた。点滅する信号に急ぎ足になる人が多い中で、彼の背丈は人より頭ひとつ分ほど大きかった。

(……どうしたんだろう)

わざと傍を通り過ぎたけれど、何もなかった。あたり前だ。すれ違ったけれど、気になってしまって思わず振り返った。男は歩き出していた。なぜ、そう思ったのは知らない。けれど、肩を落としてなにか引きずるような歩き方だと帝人は思った。
視界にうつる男の後姿を首が痛くなるまで眺めていた。そうなると居ても立ってもいられなくて、帝人は肩にかけた鞄紐を強く握り締め、百八十度体を回転させた。
平日の夕方にも早い時間だというのに、どうしてこの街は混雑しているのだろう。見渡す限りの人、人、人人人。彼に行き着くまでに人で溺れてしまいそうだと唇を噛んだ。おかげで目当ての男はすでに帝人の視界に捉えられないところにいるのだ。すれ違う人の色に落胆した。
会えたところで、交わす言葉は持たない。
それでもいいのか、追いかけた自分がわからない。吐き出した溜息は重さを感じさせるだけの重量を伴って舗道に落ちた。

***

人ごみによって見失った男を思い、溜息を吐き出した日の三日後。
ちょうど、帝人が大型書店で探していた本を購入し、これ以上その場にいると買った本以外にも欲しくなりそうだったので足早に書店を後にしようと扉を押した瞬間だ。目の前を風が通り過ぎた。それも特大の大きなものだ。あれ、と不思議に巻き起こった埃を煩わしげに瞬きを繰り返し払う。帝人の思い違いと見間違いでなければ風が起きたのは人為的によってだ。


「いい加減、死ね!この蟲が!」


明治通りに一陣の風が通った。風を巻き起こした男はすべてを無視した様子で片手に駐車禁止の道路標識を掴んでいる。強く握り締めているせいか、掴んだ部分は指の形に歪んでいた。いびつな標識はもはや使えまい。使えないことを誰も咎めない。不愉快さを隠しもしない男の表情を見て、敢えて告げることができる人間がいたら皆、手放しで褒めただろう。歪んだ表情はそれだけで人を殺してしまえそうな迫力があったのだ。
風が吹いたと同時に叫ばれた声音のあまりの不機嫌さもまたこの街では日常だった。男の慟哭にも似た叫びはビルの合間に響いた。車も二輪車も通るというのに、男の声はそれでも何に遮られることなく辺りにおちた。


「池袋に二度とそのツラ見せんなっつったよなぁ!」

「なんでシズちゃんにそんなこと言われなきゃいけないの?別にシズちゃんの顔見に会いに来てないし!あーやだやだ、自分で言ってて気持ち悪いったら!」

「そりゃあ俺の台詞だ――虫唾が走る……ッ!俺もてめぇのツラなんざ見たくもねぇ!新宿に帰れっつってんだよ!」

「わぁ!虫唾が走るとか!難しい言葉も言えるんだぁ、シズちゃんすごーい!」

「こ……のッ、クソ蟲が……!!殺す殺す殺す殺す!今すぐ!ここで!死ね――!!」


響いた風の音と男の叫びとを帝人は間近できいた。
言葉が全部吐き出される前に、男が持った標識は飛ぶ。目標には当たることはなかったが、音をたててビルの壁へと突き刺さっていた。巻き起こった埃と細かい土と砂が立ち込めて、視界も空気も悪い。その中に立ちすくむ男の姿は圧倒的だった。長い身体はそれだけの上背がありながらも、背筋が伸びて間延びしたように見えない。それだけきちんと筋肉がついているのだろう。バランスの良い腹筋と背筋をもたなければこうした姿勢は保てない。光を受けてきらめく金髪は無造作に揺れ、少し長めの前髪から覗く瞳は怒りのためかやけに鋭い。闘志に燃えた瞳さえ鎮火すれば、男の造形は整ってみえた。
肩で息をするように何度か呼吸を繰り返し、男は身近にあった自販機を引っ掴んで地面から引き離した。重さを感じさせない仕草で掴み、また投げる。その造作の無駄のなさに帝人は息を飲んだ。

(……きれい)

投げられた物の非常識さは目に入らなかった。それよりも、帝人の目を奪ったのはやはり男の手だ。
しなやかに動く指先が物を掴んで投げる。単純な動作なのにひどく目を引く。一見、無骨そうに見える指先がとても美しいもののように映るのだ。
三日前とは違う溜息を帝人は唇から落とした。


***


気にとめていた相手を思うと会えるなんて、物語の中だけの話だと思っていた。
男の指先の仕草ひとつに言葉をなくしてしまったあの日から一週間後。次に男を見かけたのは池袋の公園でベンチに腰掛けて煙草をうまそうに飲んでいる姿だった。
作品名:平和島さんと僕 作家名:篠原こはる