夜明けの前に
ドイツの兄は平気で人を欺く嘘吐きでもあったから、言葉の全てがプロイセン
の本心ではない事くらいは分かっていた。けれどプロイセンのドイツに向ける
嘘はいつだって弟の心を安らげようという兄のものなのだ。
「……兄さんはずるい。そんな風に言われてしまってはもう引き止めることも
できないじゃないか」
せめてもの抵抗とばかりに呟いたが、自分でも取り消したいくらいに拗ねたよ
うな響きになってしまっていた。案の定プロイセンは苦笑して、ごめんなと意
味もなく折れて、空いている左手でドイツの頬をすり、と撫でた。
「なら、兄さん」
「ん?」
表情を和らげて頬を撫で続けるプロイセンの左手を徐に口元へ持ち上げたドイ
ツは視線を不思議そうに瞬いた赤紫の瞳から逸らさないまま、がぶりと手首の
内側、皮膚の一番薄いところに噛み付いた。
「い……っ」
全く予想していなかったドイツの挙動に、本来ならこの程度で声など上げはし
ないプロイセンがおもわず顔を顰めドイツの手を振り払った。一噛みであった
のに、ドイツの頑強な顎はプロイセンの皮膚を破り浅い色の血がぷくりと噛み
跡から盛り上がった。
「な……」
「兄さん、約束だ」
ぎゅっと手首を押さえ目を白黒させるプロイセンを満足げに見やり、ドイツは
約束してくれと懇願する。
「その傷が癒えるまでに、あの要塞を落としてそして俺の前に帰ってくると」
「ルッツ……」
「兄さん、お願いだ」
「――……は、お前には敵わねぇよ。普通やるか、こんなこと」
数秒戸惑って、結局プロイセンはははと苦笑を零した。
まだ血のにじみ出る手をぶんと一振りして、分かったよと肩を竦める。
「お前が言うならやるしかねぇだろ。これが治るまでに必ずエバンエマールを
手土産に戻ってくる。ったく、どこまでブラコンなんだかな、俺のライヒは」
「貴方が拒絶しない限りどこまででも」
「ははっ、生意気言いやがる」
プロイセンはさっきまで腰掛けていた窓をきい、と片手で開く。まだ夜明けの
気配はない。夜明けとともに、この大計画が始まるのだ。これまでとは違う戦
い方は恐らくドラスティックにこの戦争の流れを変えるだろう。それが一体誰
の不幸で誰の栄光であるのかプロイセンには知る由もない。
「ちょうど良い風が吹きそうだ」
「分かるのか?」
「年の功ってヤツだ」
隣で同じように窓の外を見やりながら胡散臭そうな目を向けるドイツが、この
まま大国としての頂点を極めるのか、それともまた敗残と失意に塗れるのか。
願わくば前者でありますようにと遠い昔に一度は捨てた神に心の中で祈った。
5月10日午前5時25分 ファル・ゲルプ発動