ティル・ナ・ノグ
エドワードは噴出した。楽しそうな様子に、ロイもまた笑う。しかし、笑いを治めると静かな表情でそっとこう言う。
「…なんでもそうなんだ。力がなければ何かを言うこともできない。何も変えられはしないんだ」
「…ロイ?」
きょとんとした様子でこちらを見る金色の瞳に、ロイはただ笑いかける。
力がなければ何も出来ない。ただ数として埋もれていく。理想を語るには、何かを守るためには、力が必要なのだ。但し力には種類がある。武力であり知力であり、機動力であり情報力である。そして人的魅力であり、その他多くの様々な力である。
そうしたものを手に入れるためにロイは軍に進むつもりでいる。だが守るものがあるのなら、それがどこの地平でも構わないのかもしれない。少年らしいまっすぐさでその時彼はそう思った。
「なんでもない。それより、エドは普段どういうことをしてるんだ?」
やっぱり家にいて何かしてるのか、それとも学校に行っているのか?
ロイは何気なく質問したつもりだった。しかしこれは彼に非がわけではないだろう。彼は何も知らないのだから。
――エドワードの表情は、ロイの質問でふっと固まった。
それを見て、少年の黒い瞳が見開かれる。何か傷つけるようなことを言ったのか、少女の日常はそんなにもひどいものなのかと。
「…オレは、」
エドワードは一度口を開いた後、スカートの裾を無意識のようにきゅっと握り締めた。自分を励ましているようなその仕種は胸に痛く、聞かなければよかったとロイは思った。
「オレは…弟と、旅をしてる」
「旅? 旅行か?」
想像がつかなくて聞き返せば、エドワードが泣き笑いのような顔をした。それは出会ってから一番、ロイの心に響いた表情。矢も盾もたまらず、目の前のひとを抱きしめてしまいたくなるような。
「そうじゃないんだ」
エドワードは目を伏せた。それでも喋るのをやめないのは、ロイに話したいのだろう。もういい、とは結局言えず、ロイは、迷った後にエドワードの手をそっと握った。躊躇いがちに。
少女は何も言わず、手を払いもしなかった。
「オレ昔馬鹿なことして、…弟に、取り返しがつかないような、ことしてさ。ほんとバカ」
はは、とエドワードは強がって笑う。ロイは何も聞かなかった。ただ、手を握る力をほんの少し強めただけで。
「ずっと、もう三年くらい旅してるんだ。手がかりを探して…、オレが、…オレたちがやったことの、ケジメ、つけるのにさ」
「…三年…」
けして短くはないその時間と、三年前であれば十二歳であるということ、それらにロイはエドワードの深い業を見る思いだった。練成物を前にした時のいっそ無邪気な様子だけが彼女の本質というわけではないらしい、そう覚らざるを得なかった。
「…だから、いつまでも男のふりできないだろってさっきロイは言っただろ? でもさ、ほんと、そんな先のことっていうか…まあ先のこと、そういうの考えられないんだ。そんなのより、早くアル、…あ、弟はアルフォンスっていうんだけど、アルを、あいつを昔みたいにしてやらなくちゃ」
笑うエドワードはやはり無垢に見えたけれど、それは実際無垢とは似て非なるものだったに違いない。初めからただ光だけを見ていたわけではなく、そうでないものを見たからこそ至る純化した境地。それはロイには眩しくて、瞬きしてやり過ごすことしか出来なかった。
「――この石、願ったら叶えてはくれないのかな」
ロイは何と言ったらいいか考え付かなかったのだけれど、それでも逸らすようにそういってみた。しかしエドワードは笑って首を振る。
「もしこれがこの動力源というか、願いを叶えてくれる正体だったとしても、家の中にしか効力はないんじゃないか?」
「どうして?」
「だって、家の外は荒れてたじゃないか。中とは全然別の時間の中にいるみたいだった」
言われるまでもなく、ロイも思い出していた。確かにつじつまはあわない。だがどうせ不可解で理不尽なのだから、となんだか苛立ちに似た気持ちが湧く。
「でも…」
「いいんだ。それに、そんな簡単に叶ったら、苦労の意味がない」
きっぱりと少女は口にした。その潔さは水のようだ。美しく澄んだ、清流のような。
「オレは、…オレたちは自分の力で叶えなくちゃいけないんだ。それこそ、おまえが言うみたいにさ、なんだってそうだろ? なんだって、自分で掴み取らなくちゃ意味がないよ。もしもうまくいかなくたって、掴もうとしたってことが大事なんだ」
ロイは反論しようとして、それに適当な言葉を自分が持たないことを覚った。
「…そうだな」
「そうだよ」
エドワードは今度はちょっとだけ得意げに言った。
それがなんだかおかしくてロイが笑う。エドワードもまた、笑うなよ、と言いながら一緒に笑い出す。
「あ、ところで今、何時くらいなんだろ?」
ずっと話していて、夢中になっていたから気づかなかったけれど、体がなんだかだるくなっていた。もしかしたら相当な長時間こうしていたのかもしれない、とエドワードは今さらに思った。なんだかお腹も減っている気がする。
「時計…はないな。そういえばこの家、時計が全然ない」
ロイは自分のポケットを探った後、地下室(仮)内を見回し、そしてついでにさきほどまでいた書斎を思い出してそう呟いた。
時計、といって、エドワードは自分の銀時計を連想する。しかしあれは普通に時計として使っているわけではない。さすがに着替えてもあれだけは身に付けているから手元にあるが、蓋を開けて少年にみせるかというとまた話が違う。どうしたものか、と少女が迷っていると、そうだ、とロイは虹色の物質を手に取った。
「これが動力源かどうかはわからないけど、試すだけ試してみよう」
「試すって?」
少年は悪戯っぽく笑って、それを指で摘んだ。ふるん、と虹色が可愛らしく揺れる。
「時計がほしい。今の時間が知りたいんだ」
何気ない一言、のはずだった。しかし、少年の願いの何が一体問題だったというのか、その言葉で虹色がたわんで、弾けてしまったのである。ロイもエドワードも呆気にとられたが、驚いている暇は与えられなかった。ばりばりと屋敷が壊れる音がして、思わず身を寄せあう。
「エド!」
真剣な顔で少年がエドワードを抱え込もうとしていた。だが、破裂音がして、そのまま二人は逆方向へと引っ張られていく。その勢いは非常に強く、あっという間にそれぞれ相手が見えない場所に引きずりこまれていた。
「エド!」
少年の声が遠くなるのを聞きながら、少女は意識が遠くなるのを感じた。