ティル・ナ・ノグ
しかし相手は並の女の子ではなかった。危ないから、というのは言わないと通じないのか、それとも言っても無駄なのか。言う前から何となく後者の気がすると思いつつ、それでもロイは一応追加した。
「そういうのでなくて。危ないものだったらどうするんだって言ってるんだよ」
至極まともな一言だったはずだった。もしも、相手がエドワードでさえなかったなら。何しろ彼女はきょとんとした顔をした後、小首を傾げて不思議そうにこう言ったのだから。
「じゃあ、ロイが触ったら危なくないのか?」
「それは、ないけど…」
「だったらオレでもいいじゃん!」
エドワードは胸を張った。布地が厚いのか、体型はやはり少年のものにしか見えなかった。それがありがたいのか残念なのかはロイにも決めかねることだった。
「だから、そうじゃないだろう。誰が触っても危ないから、俺がやるんだろう」
そんな少年の心持など知らず、エドワードはむすっと口を尖らせた。
「なんだそれ、意味わかんないし」
「わかんないって…、わかれよ」
「うわっ、むかつくなんだそれ!」
いがみあいかけて、ロイが溜息をついた。そして首を振る。
「あー…、じゃあ、頼む」
「え」
エドワードは目を丸くした。ロイは真面目な顔で、もう一度繰り返す。エドワードは同い年くらいの少年のそんな表情を見たことがなくて――男の真面目な顔という意味でもそうだし、普段身近にいない同い年の少年と向かい合うという意味でも――だから、驚いて息を飲んでしまった。
「頼む。俺にやらせてくれ」
ロイはゆっくり繰り返した。
少年の目線はエドワードに近く、例えば大佐のロイや軍人たちと向き合ったのなら実現し得ない距離や位置にあって、その近しさに頬が熱くなる。そんな経験も初めてのことで、エドワードは混乱する。
返事がないことでロイはそれを肯定ととったらしい。試験管を手に取り、ゆっくりと逆さにする。
そのくらいになるとエドワードもはっと我に返っており、興味津々という顔でその作業を覗き込んでいた。
ころん、
音にしたらそんな感じなのだろうか。逆さに振られた試験管から、その物質はロイの掌に落ちてきた。着地した後、それはふるん、と震えた。やはり見たままに、液体でも固体でもない、半固体、とでも区別するべき物質であるようだ。
「やわらかい?」
エドワードはロイを見上げるようにして問いかけた。大きな金色の目が近づいたことで、ロイは鼓動を速くするが、どうにか散らして「ああ」と頷く。
「なあ、いいだろ、オレにも触らせて」
掌に落ちた瞬間にはどうという衝撃もなかった。普通に触れる物体であるということが明らかになっただけだ。もういいだろう、とエドワードが言い出したのも道理だし、今度はロイにもそれを断るだけの理由がなかった。
「はい」
両手を皿にして楽しそうに待っているエドワードは、少女らしいかどうかはともかく、小さな子供のようで随分と可愛かった。知らずロイの口元にも笑みが浮かぶ。こんな風に素直な同年代の少女はロイの周りにはいない。こんなやりとりは、もっとうんと小さな子供時代にしかしていなかった気がする。世情は不安で、彼は首都に暮らしていたからというのもあるかもしれない。
「わー…!」
受け止めたエドワードは、ふるん、とはねたそれを目をキラキラさせて凝視している。上げた声も喋る声より高くて、興奮しているのがわかった。ロイは作業台に腰掛けて、そんなエドワードを見る。
「すげえ、なんかやわっこい!」
「おい、あんまり押したりとかしない方が」
「してねえよぅ」
頬を膨らませてエドワードはロイを見上げた。今は服装の力もあって、拗ねたお嬢さんという風情だ。
大変なことに巻き込まれている自覚は、ロイにはあった。ここはセントラルではないし、夢を見ているか騙されているのでなければ十四年後の未来なのだという。
しかし同じアメストリスだし言葉は通じるし、今目の前にはちょっと変わってはいるかもしれないが可愛い子がいる。なんと持っていた通貨もそのまま使えたのは実にありがたい話だった。貨幣や紙幣の意匠は変わっていないか、古いものがそのまま流通しているのか。つまるところ大勢は変わっていないということで、それならば最悪元に戻れなかったとしてもどうにかやっていけるのかもしれない…。
もしかしたらここでこの子に会うためにあの妖精のようなものはロイをここへ導いたのかもしれない――ロマンチストも過ぎるというものだが、ロイは半ば本気でそんなことを考えてみたりした。いや、もしかしたら、ロマンチストというよりは単純に現金なだけかもしれないが。
「これって、練成物かなあ」
エドワードは虹色の物質を持ち上げ、光に透かした。半透明のそれは、虹色の淡い光をエドワードの頬に投げかける。子供がガラス玉を陽に透かすような、そんなあどけない仕種だった。しかしその裏には好奇心と高い知識が息づいている。
「多分そうだと思うけど…何で出来てるんだろうな」
「うん。あと、何に使うんだろ?」
「そうだなあ…」
ロイは別の試験管から同じ物質を取り出してみた。こちらもやはり何も起こらない。
少年と少女は二人して「うーん?」と唸るしかなかった。本人たちは勿論真剣だったが、誰か別の人間がが見たらきっと微笑ましい光景だと思ったに違いない。
屋敷の魔法はこの部屋でも有効であるようで、望んだ結果大きな紙とペンが出てきた。但しペンはつけペンで、興奮してインクをこぼさないようにしなければならなかった――特に、エドワードが。
やっぱりいつもの服にする、それなら汚れないし、と唇をとがらせる少女に、だめだ、とロイはあっさりした却下を言い渡した。なんでだよ、と当然エドワードは食って掛かったものの、俺の前で脱いで着替えるのか? と嫌そうな顔で尋ねられ、黙り込んだ。しっかり着替えたから、今度は脱がなくてはならないのだ。
結局エドワードは引き下がり、恨めしそうにインクを睨むしかなかった。チョークかパステルならよかったのに、とぼやいたものの、パステルだって手とか真っ黒になるからだめだろ、と阻止された。
練成物を前に、二人は数式や公式、暗号を書いては潰し、切ったりくっつけたりした。白熱した話し合いはけれど学生同士の気安さのようなものをはらんでもいて、飽きることもなく長い時間続けられた。
「あー、だっめだ、手がかりが少なすぎる」
「確かに」
二人は頷いて、作業台の乗り上げて腰掛けた。いささか行儀は悪いが、この部屋にも椅子が一人分しかないので致し方ない。
「なあ」
「ん?」
スカートの先でぶらぶらする爪先を見つめながら、ロイは頷いた。
「ロイ、…帰れなかったらどうする?」
「……うん、そうだな…」
ロイはゆっくりと顔を上げ、傍らの少女の顔を見た。エドワードは金色の目でただ真っ直ぐにロイを見ていた。そこには特にどんな感情も見当たらない。
少年の心は、ひどく凪いだものになっていた。
「そうだな、…帰れなかったら、まず仕事を探す」
「…現実的だなぁ」
「まあな。まずは先立つものがないと。理想を語るのは腹が膨れてからだろ」