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tricolore-3 (side火原)

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       3


 こっそりと袖から覗き見た講堂の観客席は、見渡す限りびっしりと人で埋め尽くされていた。薄暗い明りの中でも、はっきりとわかる。その暗がりの人の群れの中から立ち昇る熱気に、火原は身震いを感じた。
 間もなく、自分はその熱気の渦のど真ん中に立とうとしている。それがどれほど凄いことなのか、その本当の意味を、火原は今初めて肌で感じていた。
――――まいったな……。うまく息ができない。
 緊張と興奮が、全身をやみくもに駆け巡っているようだった。
 どくどくと壊れそうな音を立てて心臓が脈打っている。指先がビリビリと痺れるような感覚に気づき、火原は両手をぎゅっと重ねて握りしめた。それを胸元にまで持ってくると、まるで何かに祈りを捧げているようにも見えて、火原は心の中で呟いた。
――――おれは、何に祈ればいいのかな。
 火原にはたくさん叶えたいものがある。
 お前はもっと欲を持てとか、野心を持てとか、これまでに色々な場面で言われたことのある台詞だったが、それを聞くたびに、自分ほど欲張りな人間はそうそういないのに、と内心で不思議に思っていた。
 彼らの言い分もわからないではない。誰かと競って勝つことや、優劣を決めること自体にさほど興味が持てないせいか、誰かを押しのけてでも上へ行こうという意欲が欠けている。決して意味のないことだとは思わないが、それは火原にとって、あくまで二の次でしかなく、それ以上の意味を求められても困惑するしかなかった。
 走ることも、トランペットを吹くことも、火原にとってはいつだって「楽しいこと」だった。前よりも早く走れたら、前よりも上手に吹けたら、それはとても気持ちが良くて楽しい。コツコツと地道な努力をするのは苦手だし、あまり好きではなかったが、それも仲間と一緒になれば、途端に「楽しいこと」に変わる。それが火原のやり方だった。
 誰かと一緒にやることで、あるいはただ側にいるだけで、世界は驚くほど簡単にその姿を変える。一人きりなら通り過ぎてしまった風景が、ふいに鮮やかに輝き出すことがあるように。あるいは誰かのほんのささいな一言が、思いもよらぬ閃きをもたらすように。火原にとっての他人とは、いつでも「楽しいこと」と隣合わせで、決して切り離すことのできない存在だった。
 いつも誰かが側にいてくれることを、まるで空気のように当たり前に感じていたから、自分がその存在に生かされているのだという感覚もなかったし、自分もまた、繋がる誰かを支える存在となりうるなどと、考えてみたこともなかった。
 今なら、少しわかるような気がする。多分、これまで考えていた以上に、自分は色々なひとに想いを掛けてもらってここまで来たのだ。だが一方で、周囲の大切な人たちのために、自分は何をしてきただろう。もしかしたら、無神経に、相手にとってはひどく薄情な態度をとったこともあったのかもしれない。
 今の火原には、もはやそれを、気づかなかったという一言で言い訳することはできない。誰かに詰られたわけでも、責められたわけでもない。ただ、もう、目を閉じることも、耳をふさぐこともできないというだけのことだ。
 香穂子と出会い、生まれて初めて、他人のために自分ができることが何かを、真剣に考えた。頑張っている彼女の姿を見るたび、何か少しでもいいから、力になりたいと思った。居ても立ってもいられなくて、自分の練習さえ手につかなくなるほど、繰り返し考えた。
 けれど、やがて火原は、ひとつの結論に辿り着く。それは、自分はとても無力でちっぽけな存在で、こんなことを考えるのも、所詮はただの独り善がりでしかない、という事実だ。
――――側にいたかったんだ。
 本当は、ただそれだけのことなのかもしれない。けれど、それを言い訳に考えることから逃げてはいけないのだとも思った。安易に楽な方を選んでしまったら、もう二度と、香穂子と向かい合うこともできなくなるような気がした。
――――結局おれは、すごく遠回りをしただけなのかもしれない。
 考えても考えても結論は出なくて、柚木にもたくさん心配をかけてしまった。この最後の舞台に辿り着くまで、浮いたり沈んだりしながら、何度も迷っては回り道をした。けれど、この場所に立ってみて初めて、それは全部無駄ではなかったのかもしれない、と思えた。月並み過ぎて笑えるほどだが、これまでも多くの人々が今の自分のようにその言葉の意味を噛みしめてきたのだとすれば、それはやはり、ただのありきたりな言葉ではない。
――――おれがもし、要領よく何でもこなせちゃうようなヤツなら、きっとこんな風に気づけずにいたことが、たくさんあるはずなんだ。
 だから、全部を大切にしたいのだ。この学内コンクールを通して関わったすべてが愛しいのだと、すべてに感謝をしているのだと、この場所にいる皆に伝えたかった。
 こんなとき、言葉はとても不自由だ。
――――だから、ここに音楽がある。
 そして、この体は今、音楽を奏でるためにある。
 そう思うと、足の裏から体の芯を震えが走り抜けた。これまで関わってきたどんな舞台の前でも、味わったことがない。この学内コンクールもこれで四度目のセレクションだが、前までの三回とは、明らかに違う感覚だった。
「火原」
 背後からそっと声を掛けられ、火原は我に返って背後を振り返った。
「柚木」
「もう、そろそろ時間だよ。待機場所に戻ろう」
「ああ……うん、そうなんだけど」
「観客席の様子がそんなに気になる?」
 くすりと微笑んだ柚木に、火原は何となく気恥ずかしくなって顔を赤らめて口ごもった
「いや……、気になるっていうか、舞台に立つ前に、ちゃんと見ておきたかったんだ。おれたちは一人きりで舞台の上にいるんじゃなくて、あそこにいる人たちと一緒に作るんだってこと、確かめておきたくて」
 部活では演奏会のたびに当たり前のように口にしてきたことなのに、なぜ今までそのことに気づかなかったのだろう、と火原は思った。学内コンクールだからといって、そこに音楽を聴いてくれる人がいる限り、何ひとつ変わりはしないのだ。
「これが最後のセレクションだから、悔いのないようにしたいんだ。この空間にいる皆で、本当に楽しかったって心から思えるようなコンクールにしたい」
 講堂を埋め尽くす観客を見つめながら火原が呟くと、柚木が声を立てずに笑っている気配が背中から伝わってきた。火原は憮然として肩越しに柚木を振り返り、口を尖らせた。
「……なんだよ、笑うことないじゃん」
「ああ、ごめん……。馬鹿にしたんじゃなくて、本当に火原らしいなと思ったら、つい。確か、最初のときもそんなことを言ってなかった?」
「最初って?」
「ほら、二人とも学内コンクールの参加者に選ばれたことがわかったとき」
 そう言われて火原も記憶を遡り、思い至る。きっと楽しいコンクールになるよ、と笑って柚木に話してから、もう二か月ほどが経ったのだ。火原はそのときの自分を思い出し、少しだけ苦い笑みを浮かべた。
「―――あれは、同じじゃないんだよ、柚木」
 ぽつり、とこぼれた一言に、自分でも改めてその事実を確かめる。
 同じではない。同じには、もはやなりえない。
作品名:tricolore-3 (side火原) 作家名:あらた