幻水短編詰め合わせ(主に坊さま)
akomodi (オデッサ)
もし、ほんの少しだけ、何かが違っていたら、と、オデッサは考える。
まず。アキレスという名の青年と出会うことがなかったなら。今ごろ自分は何をしていたのだろう。
そして、彼が帝国によって奪われることがなかったら、どうしていたのだろう?
過去に仮定は無意味。けれど、シミュレーションに特化した、そうなるべくつくられた彼女の頭脳は、それを絶えず繰り返してしまう。
もし、もし、もし。いろいろな未来像を、彼女は考える。
その中には、もしかすると、自分で否定した姿、一族の定めたひとつの姿があったのかもしれないけれど。
「……ふう」
ひらり、と指先から逃れた紙が、力なく机の上へとこぼれ落ちる。
帝国に反旗を翻そうという集団、自称「解放軍」の組織は、着々と形づくられつつあった。とある事件をきっかけに、オデッサの元には反帝国の志を持つ人々が集まり始め、その数は、劇的に増えることこそなくても、減ることはない。
それは、当然喜ばしいことであり、集団の組織化という仕事に追われながら、疲労すら感じないほどに、今は充実している。
だが、しかし。
「確かに、集団には旗印が必要だと思うわ。今のところ、心ならずも私がそれに最も相応しいというのも、理解はしてる」
机の上には、山と積まれた各方面からの書簡。いずれもさまざまな形での援助を約してくれたものであり、心強い存在なのだが、そのすべての冒頭に記されていた宛て名が、現在、オデッサの機嫌を斜め方向に引き下げている。
「鮮赤の花嫁って……いつの間に、こんな名がついているのかしらね」
文面を見れば、それが一種の尊称なのだということはわかるのだが……どうにもこうにも、心地好くない。
この二つ名の由来が過ぎるほどにはっきりとしているから、なお更に。
「仕方ありませんよ。あのときのオデッサさんの姿は、それは印象的でしたから」
「……とは言えね。サンチェス」
とん、と目の前に出されたカップから立ち上る湯気が、快不快取り混ぜた書簡たちを、束の間隠してしまう。
それを運んできてくれ男の穏やかな顔を見上げながら、オデッサは降参でもするように両手を広げた。
「何でここまで、広がっちゃってるのかしら」
「それはまぁ……」
ちらりとオデッサを見て、サンチェスはひょいと肩をすくめる。
「あの時、あなたがたの式は、反乱分子たちの注目の的でしたからね」
貴族の地位にありながら、反帝国レジスタンス活動をしてきた男の処刑。のみならず、それの直前に行われた、あまりにも残酷な「結婚式」。
同情と憤りをもってそれを遠くから見守っていた同志は多く、彼らの目に、純白の衣装を血に染めて戦う彼女の姿は、あまりにも鮮烈に映った。
「花嫁……ね」
は、とオデッサは短く息をつく。もうほんの少しだけ深くしたら、肺の中に重くわだかまる自嘲やら憤りやら、そんなものまで吐き散らしてしまいそうで。
花嫁。
そのたった一言に込められた意図を、オデッサは正確に読み解いている。
恋人を犠牲に捧げ、その血で自らを飾り、理想の為にただ進む、そんな女性。帝国の在るべき姿だけを伴侶として。
人々の見る。そこには生身のオデッサはいない。
在るのは、鮮赤の花嫁衣裳を纏った、気高き指導者。
腐り果てた帝国に反旗を翻す、そのための比類なき象徴。
それが、苦しいとは言わない。不本意だとも、思わない。
なぜなら、
「ま、使える名前だ、ていうのは認めなきゃね」
わかっていたから。
自分の身を覆う紅に、誰より愛していた男のものが加わった時点で、そんなこと、わかっていたから。
シミュレーションに特化した彼女の頭脳は、そんなこと。
「ねえ、サンチェス」
ちょうど良い温度になったカップを取り上げ、オデッサは微笑みを刷いた。
「はい、何でしょう?」
穏やかな表情を浮かべる男を見上げ、少しだけ、口唇を湿す。
馬鹿らしい、と思う心を、やさしげな茶の薫香が、促してくれた。
「私、嫌な女なのね、きっと」
もし、とオデッサは考える。
もし、ほんの少し、ほんの少しだけ何かが違っていたら、どうなっていたのだろうかと。夢や懐かしさとは違う、冷めた頭脳で考える。
そして、今、そして、これから。
すべて、彼女の中で熟考され、選び取られてゆく。
アキレス。反帝国組織。結婚式。戦い。花嫁衣裳。
わかっていた。すべて、わかっている。
「そんなことはありませんよ。オデッサさん」
思ったとおりの返答に、オデッサは表情を崩す。
「ありがとう、サンチェス」
もし、は、もう在りえない。
すべては、自分が、「鮮赤の花嫁」オデッサ・シルバーバーグが選んだものなのだ。
何もかもを振り切り、「英雄」に、なるために。
作品名:幻水短編詰め合わせ(主に坊さま) 作家名:物体もじ。