幻水短編詰め合わせ(主に坊さま)
akomodo (テッドと坊さま)
よく晴れた日には、空を見上げる。
どこまでも続いていそうな青さと、点々と散らばる白い雲と、まぶしく視界を覆う、光のかけらをゆっくり眺める。
そんな空は、昔を思い出させてくれる。
「なあ、ルイ」
そして今は、隣に、そんな言葉を交わしたい友がいる。
「お前さ、海を見たこと、あるか?」
どこまでも拡がるような広さと、終わりがないような深みと、陽の光を吸ったあたたかい、水と。
船の腹にぶつかって白く崩れる、尽きることのない波。
「あるわけないだろう。湖ならあるが」
そっけないくせに、どんなものでも飲み込んでしまう海は、そう言えば、この相棒によく似ている。
一見冷たそうなくせをして、触れてみれば案外あたたかい。それでいて、浸かりきっていれば、どんどんと体力を奪われる。
そして、それでも、魅せられる。
「あー……ま、そりゃそうか。わざわざ海まで行かなくても、トラン湖があるし、な」
だから、こんな話をする気にも、なる。
海など、ここから随分と離れた場所にしか、ありはしないのに。
ほんとうは、自分の過去に少しでも触れるようなことなど、話してはならないはずなのに。
それでも、こいつは、すべてを飲み込んでしまうのだろうから。
空とは違って、何かを放り投げても、あえなく戻ってきたりは、しないのだろうから。
「なあ。海って広いんだぜ」
「知っている」
「知ってるだけだろ。見たことないくせに」
「で、次には『海の水は塩辛いんだぜ』、なんて言う気じゃあないだろうな? もちろん」
「当っ然!」
「言う気なんだな」
「良くわかってるじゃねえか」
青空は、色は違っても、深みは違っても、それでも海を、思い出させてくれる。
浮かぶ白い雲が、ゆらゆらと波間に残った飛沫を、真似ているようで。
「海ってな、ほんとにでかくて深いんだよ。波があって、風も、潮の匂いがして」
今でも、おぼえている。
珍しく、あざやかだった日々。
束の間、この身にくすぶり続ける熾を忘れることができ、そのくせ、ほんの合間に、それ以上の焦燥を煽る隙間風のような、青色の日々 。
「ルイ、海はいいぜ」
ああ、それでも。
「ま、グレッグミンスターも悪かないけどさ」
たったひとつ、海には、こいつがいなくて。
たったひとつ、ここには、海がない。
それは、同じことなのだ。
「……なあ、ルイ。お前、海が見たいとか、思うか?」
そろりと見上げた先に、琥珀の宝珠。
大昔の樹液の固まったものだというそれは、海にはけして生じ得ないもの。
ただ、緑ゆたかなこの地にしか。
「さあな。見る機会があれば別だが、そうでないならわざわざ見る必要もないだろう」
ざざん、ざざん、絶え間ない、やさしいリズム。
変わることなく、終わることなく続いていく、あの果てない海が、好きだった。
「そっか。そだな」
何年経っても変わらないリズムも、深みも、色も、すべてが、自分を安心させてくれた。
変わらないものが在ってもよいのだと、そう、告げてくれるような、終わりの見えない果てしなさが好きだった。
厳しいけれど、ほんの少しの間なら、あたたかく甘やかしてくれるあの青い腕に、抱いだかれていた。
「それとも、海が恋しくでもなったか? テッド」
それでも。
「ばぁーか。俺がいなくなったら、ルイ、寂しくて泣いちまうだろ?」
海には、真珠も、珊瑚もあるけれど、琥珀は、いないのだ。
海がなくても、ここには、それがある。
「……つまり、お前にはそれ以外の選択肢はないということか」
「ん? 何だよ」
同じように、すべてを飲み込んで横たわる、友がここにいるのだから。
見上げる空は、あのころと、すこしも変わりはなく。
あざやかな青い日々は、色あせることなく、ただ、思い出のままに。
「……一緒に行く、ということを、少しも考えはしないんだな」
たとえ、海のように、果てないことを保証は、してくれないとしても。
昔の海を、恋しくは、思わないのだ。
作品名:幻水短編詰め合わせ(主に坊さま) 作家名:物体もじ。